「柳川掘割物語」〜水へのこだわり〜

陰陽五行説、というのがあります。世界を構成する5つの原理として、「水・火・木・金・土」の5つの元素を置く考え方。中でも「水」は、まさに生命のゆりかごとして、母性の象徴でもあり、死の象徴でもあり、無意識の象徴でもあり、人間存在の一番深い所に関わっている存在でしょう。

この「水」が人間生活から無理やり切り離されて久しい。今の子どもたちに、五行説の説く世界観を語っても、きっとピンと来ないでしょうね。水は水道の蛇口から出てくるもの。火はガスコンロの上で青く燃えるもの。木は街路樹。金属は身近に沢山あるけれど、土に触れることなどほとんどない。

こうやって見てみると、現在の都市生活の大部分を構成している、コンクリート、プラスティック、アスファルトというものが、いかにこの五行説の5要素からかけ離れているか、が分かりますね。先日、この日記にも書きましたが、台風による水害などを見ると、そうやって、人間生活から切り離された「水」が、抑圧されたエネルギーを一気に放出しているような、荒々しい怒りのエネルギーを感じます。

ドキュメンタリー映画、「柳川掘割物語」を見たのは、この映画が、宮崎駿高畑勲、という、スタジオ・ジプリを支える2人の偉大なクリエーターが作ったドキュメンタリーだ、ということを知っていたから。宮崎アニメについては、種々の議論が既に巷に溢れているでしょうから、ここでは、その諸作品に共通する、「水」へのこだわりについて語るだけにしましょう。宮崎氏の映画デビュー作となった「カリオストロの城」は、全編、「水」を巡る映画ともいえる。「水」をいかに美しく、かつリアルな質感で描くか、ということに相当のエネルギーが割かれた映画でした。この「水」へのこだわりは、その後の宮崎アニメにも多く顔を出します。「風の谷のナウシカ」における腐海の底の清浄な水。「天空の城ラピュタ」で、ラピュタを包み込む巨大な木が抱え込む豊穣な湖。さらに遡れば、両氏が最初にコンビを組んだ、「太陽の王子ホルスの大冒険」で、ヒルダが竪琴を片手に歌う湖や、村の側を流れる川の描写。思い起こせば、「アルプスの少女ハイジ」で、ハイジが、都会の中で捜し求め、クララの父親の心をつかむのは、「おいしい水」なのでした。

両氏の作ってきたアニメにおけるこの「水」へのこだわりの究極の形が、この「柳川掘割物語」である、ということは確かに言えると思います。人間の長い水との付き合いと、その水との触れ合いを現代に蘇らせた柳川市の試み。それは両氏がこだわりつづけてきた、人の命を支える「水」と人間のあるべき理想の関係を見事に指し示したもの。この事例に出会った両氏の感動と、人間は、水とこういう関係が築けるのだ、という喜びが、この映画を支えた大きな動機。

さらに言えば、この映画は、その後に製作された高畑氏のアニメ、特に、「おもひでぽろぽろ」という作品に大きな影響を与えたのだな、と実感しました。私が気付いたのは大きく2点。1点目は、登場する人々の顔です。水に関わり、水と戯れる柳川の人々の顔。いい意味での、田舎の人々の、朴訥とした顔なのです。決して洗練された都会の人々の顔ではない。でも、生活感あふれる、活き活きした顔。取り分け、水辺で遊ぶ子どもたちの顔の、なんとたくましくも個性的で、生命力溢れていることか。

この「顔」へのこだわりをアニメに反映させた作品の一つが、「おもひでぽろぽろ」だったと思います。「おもいひでぽろぽろ」に出てくる登場人物たちの顔は、決して、美形ではありません。むしろごつごつした、典型的な田舎の日本人の顔を表現することにエネルギーを割いている気がしました。この映画を見た時に感じた「顔」へのこだわりが、「柳川掘割物語」の人々の顔を見て、やっと得心がいった。

2点目は、「柳川掘割物語」のラストに出てくる、川の船から岸辺を撮影した映像です。普通、カメラを水平移動させながら対象を撮影するには、車にカメラを乗せて伴走するか、あるいはレールにカメラを乗せてスライドさせる方式が採られるはず。しかしここでは、柳川でしかできない方法として、「船にカメラをのせて、岸辺の対象を撮る」という方法が採用されている。これが実にいい画なんです。ゆったりとした船の動きに合わせて、ゆっくりとアングルを変えて、岸辺の対象をじっくり眺めるカメラ。この流れるようなリズム感。

おもひでぽろぽろ」の印象的なシーンに、田舎に着いた主人公が、車の窓から、見渡す限りに広がる紅花の畑を眺める、というシーンがあります。紅花畑の中に立つ、田舎の顔をしたおじいさん、おばあさんたち。それをとらえるカメラは、車中から眺める、という視点を持ちながら、実にゆっくりしたスピードで横にスライドしていく。ああ、このシーンだ、と思いました。

海の干満差によって作られた広大な平野は、慢性的に水不足となる。それゆえ、縦横にめぐらされた掘割によって水を溜め、水をコントロールすることで生きてきた。その水との密接な関わりを、近代的な治水行政が破壊しようとする。遠隔地にダムを作り、水を引く。下水は全てコンクリートの下に追いやり、地下水をくみ上げる。そうやって水とのかかわりと断とうとしたときに、柳川の心有る人々が、「それでいいのか」と立ち上がった。

掘割の再生の物語は、今流行の「プロジェクトX」を思わせます。この映画が取り上げたテーマには、非常に共感するものがあるし、映像も実に美しい。ただ、ドキュメンタリー映画としては、それほどいい映画だとは思いません。丁寧に作ってあるとは思うのですが、台本が文語体で、かつ非常に教育的に、説教臭く書かれているので、耳で聞いて理解できない、あるいは押し付けがましい部分が沢山ある。構成が冗長で、退屈。同じドキュメンタリー映画でも、「ゆきゆきて神軍」が、映像とインタビューと最低限のテロップのみで、叩きつけるようなメッセージを送ってきたのとは大違い。まあ、題材が違うし、高畑さん自身が、そういうダイナミックな演出をする人ではないですからね。それにしても、脚本はもう少し分かりやすく書けたと思う。ナレーションの加賀美幸子さんが、すごく苦労している感じがしました。

宮崎・高畑両氏が、自分の作品を通じて主張しつづけてきた、自然への回帰、それによる人間同士の連帯、という大きなテーマの中で、このドキュメンタリーが撮られたのは必然だったのかもしれません。柳川という街、一度ぜひ行って見たい、そんな気分で、美しい川辺の映像を眺めていました。