「夢見る宝石」〜サーカス、あるいは畸形へのこだわり〜

サーカス団、あるいは「カーニヴァル」というものに対する西洋文化のこだわり・・・というのは何なのかな、と思う時がよくあります。極端な事例としてのフェリーニの映画以外にも、「カーニヴァル」、特に、小人を代表とするいわゆる「Freak」ショウに対する西洋人のこだわり、というのを結構感じることがある。「Freak」にこだわり続けるデヴィッド・リンチの映画。レイ・ブラッドベリの諸作品。割と最近の「Big」という映画でも、少年の夢をかなえる不思議な機械は、巡業カーニヴァル団の中で発見され、「ベルリン天使の詩」で天使が発見する愛も、サーカスの中で暮らしていた。そういう西洋文化の持つサーカスへのこだわりをそのままの形で引き継いでいたのが、寺山修司のいくつかの映画作品だったなぁ。

カーニヴァル、という存在そのものに、詩的な要素が多く詰まっている、というのはその通り。「Freak」=畸形が示す人間存在自体への疑問。死と隣り合わせのアクロバットの恐怖、そして、放浪、というカーニヴァル団の持つ性格。その全てが、日常の生活の中に定着している我々の常識を根底から覆す。そこにある祝祭性と哀愁の共存。グロテスクと美、生と死、束縛と解放・・・さまざまな二律相反をごった煮のように抱え込んで、最終的にはエンターテイメント=見世物として存在している大衆性。

確かに心惹かれる部分はとてもあるのだけど、それにしても、西洋のサーカスへのこだわりっていうのは、ちょっと特別な気がするんだよね。逆に言えば、東洋のいわゆる「見世物小屋」というものは、あまりエンターテイメントとして表に出てこない。実際には、日本にはサブカルチャーとしての「見世物小屋」の文化がしっかり存在していて、蛇の丸呑みショウだの、そういうグロテスクなエンターテイメントの世界が存在しているのだけど、これが表に出てこない。

・・・と考えていくと、「Freak」=畸形、というものに対して、日本人が持っている「ケガレ」意識にたどり着いていく気がするんです。日本人の中には、「畸形」ということに対して、表に出してはいけないもの、あるいは、出ていても目を背けなければならないもの・・・という意識があった。過去からの「悪因縁」の報いとして生まれる「畸形」。「親の因果が子に報い」という言葉に象徴される、因果応報の発想の中で生まれてきた、「畸形」という存在は、世間の目から隠さねばならない、という意識。でもその一方で、そういう存在は、逆に聖性も有している。柳田国男の「一つ目小僧論」、小松左京の傑作「くだんのはは」など、そういう意識を背景にした作品は多い気がする。最近は、乙武洋匡さんなんかの登場で、日本でも、畸形であること、というのは決して「ケガレ」としては受け止められなくて、むしろ一つの極端な個性=「聖性」として受け止められることの方が多い気がします。実際、畸形を持って生まれた人とかと接していると、なんだかこちらが癒される気がすることが多いもんなぁ。

西洋においては、もともと、そういう「畸形」に対するタブー意識が低い気がする。結果として、「ウィロー」のように、小人症の人々が主人公として活躍する映画が出来たりする。逆に小人症の人たちの持つ「聖性」の方が表に出てくるのが西洋の捉え方のような気がします。レイ・ブラッドベリの描き出す、永遠の子供としての小人への、憧れに似た感情。「ロード・オブ・ザ・リング」でも、小人族=ホビットの持つ聖性が、世界の危機を救う。白雪姫を救うのも7人の小人でしたよね。西洋のカーニヴァルへのこだわり、というのは、そういうタブー意識を取り払って見た時に、カーニヴァル自体の持つ詩的な性格や、「Freak」の持つ聖性や癒し効果が、はっきり見えてくるからかもしれない。

図書館で何気なく手にした、セオドア・スタージョンの「夢見る宝石」。スタージョンという人は、名前だけは知っていたのだけど、作品を読むのは初めて。難解な作品が多い作家、という話だけど、この本はあっさりと読み終えました。理解しにくい、という解説もあったけど、レイ・ブラッドベリ的世界をさらにデビッド・リンチ的偏執狂意識で発展させた、として読めば、読みにくいことはない。結構好みの世界かもしれないなぁ。

むしろ、オタク文化がここまで市民権を得た現代においては、作品の発表時よりも、スタージョン的世界が受け入れられやすい土壌があるのかもしれないなぁ、と思いながら読んでいました。ここでも、カーニヴァルの詩的な世界というのは通奏低音になっていて、純粋な精神=聖性を持つ小人が危機を救う、という物語。面白いよね。スタージョンの他の作品も、少し追いかけてみようかな、と思います。