「黄金の日日」〜失われた日本語〜

昨夜、CATVチャンネルをザッピングしていたら、時代劇チャンネルで放送が始まった「黄金の日日」が偶然映り、思わず女房と腰を据えて見てしまいました。1978年製作の大河ドラマですから、もう26年前。出てくる役者さんがとにかくすごくて、女房とひゃーひゃー言いながら見ていました。すごいなぁ、と思った点をいくつか。

一つ目は、現在大御所や中堅役者になっている役者さんが、とにかく若い。根津甚八さんなんか、若手のペーペーって感じ。津川雅彦さんがすごい二枚目でかっこいい。林隆三さんも活き活きと若く、緒方拳さんも、故川谷拓三さんも、軽やかに若い。なにより、主役の市川染五郎(現 松本幸四郎)さん。第一回の放送でかなり若作りしているとはいえ、ぎらついた感じの、精悍ないい男です。

二つ目は、役者さんの豪華さと、その重厚なお芝居。丹波哲郎津川雅彦鶴田浩二志村喬という顔ぶれが、堺の会合衆として談合している場面なんか、見てるとくらくらしてくる。一つ一つのセリフの確かさ、画面上の存在感。宇野重吉さんと、丹波哲郎さんと、鶴田浩二さんが、茶室で語らっている姿なんて、もう食い入るように見るしかない。女優さんは、栗原小巻さんと、もうため息が出るほどに美しい夏目雅子さんがちらっと出ているだけで、あとはみんな男優さんのお芝居なんですが、すごい重量感。

この頃の大河ドラマに出ていた役者さんというのは、時代劇の文法がきちんと身についていたという気がします。時代劇の扮装、ちょんまげ姿から、立ち居振舞い、そのセリフ回しまで。日常生活で着物を着ていたとは限らないと思いますけど、全てに違和感がない。以前、この日記で、時代劇の立ち居振舞いを身に付けた役者さんがいないことを嘆いた、おすぎさんの言葉を紹介したことがありました。自分であまり実感がなかったんですけど、こういう熟練の役者さんたちの姿を見せられると、最近の役者さん達の時代劇姿は、やっぱり仮装大会レベルですね。全然別のもの、という感じがします。

もう一つ、面白いなぁ、と思ったのは、皆さんのセリフ回し、声の色が、現在と全く変わっていないことです。津川雅彦さんの独特のセリフ回しは当時から完成されている。根津甚八さんも、幸四郎さんも、当時の声の艶やかさが、現在も全く失われていない。日頃の鍛錬なんでしょうね。やっぱりすごい人たちなんだなぁ。

三つ目が、一番印象に残ったこと。これは女房が指摘したことなのですが、「時代劇のセリフを、役者さんがちゃんと理解して口にしている」。日常生活で使ったことのない言葉や単語を、無理やり口にしている、という感じではなく、自分の日常でちゃんと理解して使っている言葉で、語っている感じがする。だからセリフが生きていて、分かりやすい。

以前、千流螺旋組の「灰神楽」を観劇した時、役者さんの使っている言葉が現代の言葉で、昭和初期の言葉と違うことに違和感を覚えた、という話を書きましたね。それと同じように、多分現在の役者さんは、時代劇で使われるような言葉を日常生活で使っていない。だから、どうしても上滑りなセリフ回しになる。人から教えられ、指導されたセリフになる。生身のセリフにならない。

でも、26年前、時代劇のセリフと、日常の会話には、さほど差がなかったのでは、という気がします。例えば、鶴田浩二が、さりげなく、「珍しい客人がいらっしゃった」という場面がありました。「珍しい客人」という言葉は、当時まだ生きていた、日常で使われていた言葉だったと思います。今、「客人」なんて言葉を日常生活で使わないですよね。そういうセリフを与えられた若者は、「客人というのはお客様という意味」と説明される所からスタートする。それは、セリフを自分のものにする前に、一つの壁が存在することに他なりません。

「堺の町がバテイにジュウリンされる」なんてセリフを、最近の若い人たちが、きちんと理解して口にすることができるだろうか。「馬蹄に蹂躙される」、という漢字がすぐ頭に浮かぶだろうか。浮かんだとしても、そのイメージが具体的に浮かぶだろうか。それを例えば、「こういう意味だよ」と教えられたとしても、それは外から与えられたイメージであり、自分の中から沸いてくる具体的なイメージにならない。最近の大河ドラマを見ていると、時代劇のセリフと日常生活のセリフの間の懸隔が、非常に大きくなり、それが役者さんの芝居を薄っぺらなものにしている感じがすごくします。

26年という時間のうちに、これほどに多くの日本語が死んでいったのか、と思うと、何となく寒々とした気分になりました。おりしも、日本の子供達の学力低下を報道するニュースが巷を賑わしていますね。「巷を賑わす」なんて言葉も、最近使う人はいないのかなぁ。そうやって使われなくなり、失われてしまった日本語は、一体どこに行ったんでしょうか。