着物のこと

昨夜から、フジテレビで「大奥」が始りましたね。「剣客商売」以降、フジテレビはもう時代劇を作らない、ということで、寂しい思いをしていたのですが、さすがフジテレビ。「女性向け時代劇」という新分野を見事に開拓した、という感じです。この路線が拡大発展し、TV時代劇の伝統が守られるといいんですが。時代劇を撮っているのはNHKと水戸黄門だけ、というのは、なんとも寂しい限りですもんねぇ。

ソフト制作能力、というのは、ノウハウの集合体ですから、その中のたった一つのノウハウが失われてしまっても、そのソフト全体の維持ができなくなる、ということがあると思うのです。ノウハウを維持するには、そのノウハウが定期的に使用されていることが大事。それが使われなくなり、ノウハウが維持されなくなることで、滅びてしまうジャンル、というのは必ずある。

抽象的な言い方をしましたけど、時代劇、というのはまさにそういうジャンルだと思うのです。時代劇を作るノウハウ、というのがある。それを維持するためには、つねにそのノウハウが使われていなければならず、使われることで鍛えられる必要がある。

こんなことをぶつぶつ言っているのは、「大奥」をちらりと見た時に、狂言回しの役を務めている星野真理の着物姿と立ち居振舞いが、あまりにもひどかったから。時代劇を作るノウハウの中で最大のものは、俳優側の「着物での立ち居振舞い」だと思うのですが、星野真理のそれはあまりに悲惨だった。制作側もそれを了解しているらしく、彼女の芝居になると、なるべく全身を映さずに、顔のアップを多用しているようなのですが、それでも、日本髪のなんと似合わないこと。

以前、石井聰互監督の、「五条霊戦記」について、おすぎさんが、「役者の立ち居振舞いが時代劇になっていない。もうこの国で、時代劇を作ることはできないのかもしれない」と嘆いていました。それも、主役級の、浅野忠信さんや隆大介さんのお芝居のことを言っているのではなく、「画面の端の方のエキストラの人たちの立ち居振舞いがなってない」とのことです。私はおすぎさんというのは、日本のメジャーな映画評論家の中で、唯一文化論としての映画論を語れる人だと思っているのですが、さすがに視点が違うなぁ、と感動したのを覚えています。

でも、自分でも情けないことに、「五条霊戦記」を自分で見ても、エキストラの立ち居振舞いが時代劇になっていない、という感想は持てなかった。つまり、私自身が、時代劇としての立ち居振舞い、着物での立ち居振舞いがどうあるべきなのか、ということを知らないんですね。これには結構愕然としました。観客側も、「時代劇とはかくあるべき」という作法を知らない、この国はそういう国になりつつある。

そんな私でも、さすがに、星野真理のひどさには気が付きます。星野真理さんのファンの方がいたらごめんなさい。いい役者さんだと思うのですが、基本の立ち居振舞いがひどいと、例えば、梶芽衣子さんと同じ画面に収まった時、もう存在感が全然違うんです。ただ正座して座っているだけなのに、姿勢からして全然違う。同じ画面に収まるな、と喚きたくなるくらい。そりゃあ、梶さんと比べちゃうこと自体可哀想なんだろうけどさ。

うちの女房は、実家が着物好き、ということもあって、TVの俳優さんの着物さばきは随分気になるようです。私も女房の影響で、最近妙に気になるようになりました。そんな女房がいつも感心しているのは、歌舞伎役者さんの着物姿の素晴らしさ。当たり前といえば当たり前なんですが、こういうノウハウを維持していくってのは、本当に大変なこと。あとは、「おかあさんといっしょ」に出ている、うたのおねえさんの、はいだしょうこさんの着物姿に感服していました。タカラヅカ出身者の着物姿ってのも、実にきちんと訓練されています。

あとは、やっぱり歌舞伎一家なんですが、松たか子さんの着物姿、というのは、他の若手俳優さんとは着物の質も、立ち姿も全然違います。個人的には、以前声優教室で教わった落語の先生の着物の普段着姿があまりにかっこよくて、すごく憧れました。憧れついでに、自分の着物のアンサンブルを一式作ってしまったんですけど、お正月にしか着てない。やっぱり普段から着てないと、こういうものって身につかないんですよねぇ。