「コシ・ファン・トゥッテ」〜モーツァルトの高み〜

私ごときがモーツァルトのことを論じることなんかできない。相手がでかすぎる。クライバーのことを論じることだってできないのと同じ。だから、あくまで個別の作品に対する個人的な感想を綴るだけ。その上で言うのだけど、「コシ・ファン・トゥッテ」、ほんとに好きです。

なんでこんなことを書いているか、というと、昨夜、先日クラシカジャパンで放送されていた、1996年のウィーン国立、ムーティ指揮の「コシ・ファン・トゥッテ」の映像を見ていたから。後半部分をダビングしながら見ていたのだけど、結局最後まで女房と一緒に見入ってしまいました。

[演出]ロベルト・デ・シモーネ[演奏]リッカルド・ムーティウィーン国立歌劇場管弦楽団・合唱団[出演]フリットリ(S)、バチェッリ(S)、キルヒシュラガー(Ms)、シャーデ(T)、スコウフス(Br)、コルベッリ(Bs)

という布陣。演奏のクオリティもすごく高いし、舞台も実に美しい。フレスコ画がいくつも重ねられたような、回り舞台の機構を効果的に使った舞台。歌い手たちもみんな美しい。フリットリは美しく、若さがはちきれそうだし、キルヒシュラガーもとてもコケット。シャーデもスコウフスもいい男達だし、バチェッリもコルベッリも芸達者。ムーティも含めたオケピットとのアンサンブルも最高で、ほんとにいい舞台でした。しかし、フリットリのおっぱいは衣装からはみ出しそうなくらいでかいなぁ。

モーツァルトのオペラは、「後宮からの逃走」と、「コシ・ファン・トゥッテ」の舞台に合唱団として参加させてもらったことがあります。他に、生の舞台に接したことがあるのは、先日の二期会の「ドン・ジョバンニ」とMETの「コシ・ファン・トゥッテ」くらい。映像や録音では、「フィガロ」「魔笛」にも接しているのだけど、もっと生の舞台を見たいなぁ。

永竹由幸さんが、「モーツァルトは、オペラ・ブッファという形式で人間を描く、というとんでもないことに成功してしまった人」と、その著書「オペラと歌舞伎」の中で書かれていました。「コシ」「ジョバンニ」「フィガロ」に描かれた人間たちのなんと活き活きしていること。そこに共通しているのは、人間という存在に対する愛情と絶望のサンドイッチされた感情。中でも、「コシ」はそういう人間への絶望が前面に出てきている。「女なんてしょせんそんなもの」=「人間なんてしょせんそんなもの」という諦め。諦めとともに、その存在を笑い飛ばすニヒルさ。そうでありながら、美しい音楽を寄り添わせてしまう愛情。

後宮からの逃走」で、変わらぬ貞節と大いなる許しを描いたモーツァルトが、「人間なんてしょせん」と冷笑するに至るまでに、彼の人生に何があったのかは知りません。でも、彼のオペラを聞いていると、善と悪が組みひものように入り混じる中で、右へ左へと振り回される人間を、どこか突き放した目で、誰にも寄り添わず、誰にも同一化せずに、等間隔で見つめている視線を感じる。「ドン・ジョバンニ」の悪のヒーローに対する善玉たちの偽善者ぶり。「魔笛」に至っては、タミーノは、最初は善と思われた夜の女王の要請を聞くうちに、いつしか悪であったはずのザラストロの側についている。そこに、モーツァルトの中にある女性不信=母性不信と、男性的=父性的なるものへの渇望を読み取り、モーツァルトと父の間の葛藤を読み取ることもできるかもしれない。

でも、そういう個人的な葛藤を超えて、モーツァルトは全ての価値観から等間隔であることで、常に普遍的で新しくあり続けているのだと思います。さらに、その音楽は、冷笑的でありながら温かく、幸福なのです。中でも、「コシ・ファン・トゥッテ」は、聞いているだけで、見ているだけで、すごく幸せな気分になるオペラ。これが不思議なんだ。人生の、人間の苦さを冷笑しているのに、それを描いている音楽のなんと幸福なこと。冷笑、といいながら、その視線はどこか愛に満ちている。愛に飢えているのかもしれないけど。

フレスコ画の画面の中で繰り広げられる人間喜劇を、温かいまなざしで、「しょうがないやつらだなぁ」と見つめている目。それは神の目にも近いのかもしれない。「コシ・ファン・トゥッテ」を見るたびに、右往左往する男女の有様に吹き出しそうになりながら、そんな、モーツァルトの音楽の「高み」を、いつも実感するのです。