食べ物の好き嫌い

娘が、幼稚園に持っていくお弁当の中に入れたほうれん草の炒め物を全部平らげてきたそうです。ほうれん草はあんまり得意じゃないんだけどね。「うぇってなりそうになったけど、がんばったよ」と報告してきたそうです。

先日も、夕食の席で、サラダを完食するんだ、と頑張って、ぽん、と口に入れたのがセロリ。すごい顔をして飲み込んだ後で、「セロリ苦手なのに・・・」と今にも泣きそうな顔。女房が慌てて、「おイモ食べなさい」と口直しのサツマイモを食べさせて、ご機嫌を取っていました。

食べ物の好き嫌い、というのは、成長によって変わってきますよね。苦味のある野菜が苦手、という子供は多いと思うのだけど、この苦味が大人になると美味しく感じられるようになるから不思議。子供の頃はどうしても肉系や、甘味系や脂っぽい味覚に惹かれるけど、大人になるとそういうものがかえって辛くなってくる。

ふと思ったのだけど、これって、成長過程の肉体が必要としているものを優先して摂取しようとする、生物学的な欲求なのかもしれないですね。子供の頃は、とにかく体が成長することと、体の大きさの割りに運動が活発だから、活動に対するエネルギー補給が大事。そうすると、たんぱく質と炭水化物の摂取が優先される。ビタミンや繊維質は二の次。

でも、体の成長が終る成人期以降になると、むしろビタミンや繊維質をきちんと取る方が大事になる。それに伴って味覚の好みが変わってくるのであれば、人間という生物も実に上手く出来上がっているものだなぁ、と思います。そのあたり、生物学的な肉体の状態と味覚の関係について、解明してくれる人はいないですかね。例えば、妊婦さんが急に食べ物の好みが変わる、というのも、肉体の状態と味覚の密接な関係を端的に示しているように思うのだけど。

でも、生涯を通して変わらない好み、というのはあります。食べ物の好き嫌いだけは、理屈じゃないだけに、人に言われても絶対変わらないし、直らない。お恥ずかしい話なんですが、私は茄子がどうにも苦手なんです。さすがに大人になって、レストランで注文したお皿に付け合せでついてた、なんてことになると、我慢して食べますけどね。どんな調理方法でもダメ。あの食感がダメ。ぬるんとしている上に微妙なツブツブがあってイヤ。茄子なんてのは、きれいな色してるんだから、鑑賞用植物として存在を全うすりゃいいんだ。爪楊枝突き刺してお盆の馬になってりゃ、それで十分存在意義があるじゃないか。テンプラの盛り合わせを頼むのは海老のテンプラやイモのテンプラが食べたいからであって、なんで茄子のテンプラが必ずついてくるんだ。非常に不愉快である。不愉快がっているのは私だけである。そうだよ、悪かったね。

女房に言わせると、「茄子が食べられないことで、君の人生の楽しみの3分の1は失われている」とのことなんですが、そういわれてもダメなものはダメなんです。繰り返しになるけど、理屈じゃない。阪神ファンであるという事実が変えられないのと同じ。変えられるものなら変えたいって所も同じ。誰か岡田を替えてくれ。テーマが違うぞ。

同じ職場には、ミツバがダメ、という方がいらっしゃって、親子丼とかを注文すると、卵の上に張り付いたミツバを一つ一つ丁寧に取り除いてから召し上がってます。人の好みはほんとに十人十色。とんねるずがやっている、食わず嫌い選手権、割りと好きでよく見るんですけど、あれが人気を取っている、というのもなんとなく分かる気がする。理屈じゃないところで、変えようがない生理的好悪に、その人の人柄がにじみでる、そこが面白いんでしょうね。茄子が嫌いな理由について私に語らせたら長いぞ。そんなの語って何の意味があるんだ。ないですね。