「八朔の雪」〜贅沢な一冊〜

先日、友人のS弁護士が、「これいいよぉ」とプレゼントしてくれた、高田郁さんの「八朔の雪」を読了。大坂と江戸の情緒を料理がつなぐ、という、なんとも贅沢な一冊。贅沢、と感じるかどうかは人それぞれかもしれないけどね。何せ、時代小説と言いながら、これといって大きな事件が起きるわけじゃない。料理をめぐって苦闘する主人公を見守る沢山の優しい視線の絡み合い、という、実に穏やかで静かな小説なのだけど、盛り込まれたディテールが実に贅沢な感じがするんだなぁ。

あんまり書くとネタバレになるので避けますが、とても美人とはいえない平凡な風貌ながら、天才的な味覚を持つ主人公と、恵まれた容姿と境遇にありながら運命に翻弄されるその友人、という二人の主人公たちに、少女漫画の類型を感じたりする。そうして調べてみると、この高田郁さん、以前は少女漫画の原作者として活躍されていたそうです。女性の共感を得る一つの基本構造なのかしら。

その主人公たちの苦闘を優しく見守る上方の人々と江戸の人々が、なんとどこまでも優しいこと。人々だけでなく、雑草に埋もれたお稲荷さまの神狐までが、うふふ、と微笑んで主人公を見守る、その視線の優しさ。そしてその優しさを支える人生の苦さ。どこかしら、「御宿かわせみ」のシリーズに似た温かさがあるなぁ、と思っていたら、「八朔の雪」という同じ題のお話が、「御宿かわせみ」にもあるんですね。

意識されたかどうかは別だけど、江戸を舞台とした料理小説、という基本構造自体、数ある池波小説を思い起こすし、天災に翻弄される人々の姿には、周五郎小説の記憶もよみがえる。下町の風情には藤沢作品の雰囲気ももちろん感じる。そういう先達の印象がよみがえってくることを、作者はむしろ意識しているような気もします。伝統的な江戸人情時代小説を土台にしながら、全く新しい現代的な物語を紡ごう、という意欲。先述の少女漫画的人物造型すら、そういう意欲の現われかも、なんて思ったりするのだけど、この小説の最大の新しさは、なんと言っても「料理」。そして、もう一つの新しさが、「上方」と「江戸」の衝突、というテーマ。

上方の味覚から、江戸の味覚に挑戦していこうとする主人公の苦闘を、これでもかとばかりに緻密に緻密に描き出していく厨房の詳細な描写。江戸の食材と大坂の食材が入り混じり、それぞれの味覚がぶつかり合う間に、新しい料理が次々と生まれていくドラマティックなプロセス。そして、時折挿入される上方の遊郭近辺の町の風情や、柔らかな上方弁など、これまでの「江戸人情時代小説」には盛り込まれなかった異文化のテイストが、かえって江戸という場所を相対化し、そこに繰り広げられる人情物語を普遍的なものに昇華していく。

これは絶対、と思ったら、案の定、高田郁さんという方は、兵庫県宝塚市のご出身とか。私が三田市の出身ですから、隣の市です。関西出身者としては、江戸時代の大坂を舞台にした時代小説が読みたい、と昔から思っていたので、そういう意味でも、この小説は実に嬉しいプレゼントでした。「みおつくし」という単語を聞かされただけで、大阪に暮らした人間は結構、きゅん、としたりするのだよ。

以前、「若おかみは小学生」シリーズに親子してはまっている、という話を書きました。この作者の令丈ヒロ子さん、という方も、大阪の出身。出身地が一緒、というのは、どこかしら共感の土壌を共有しているのかもしれません。そう思うと、料理に対するこだわりっていうのも、ちょっと共通しているなぁ。

既に次作への伏線が提示されていて、このシリーズはこれからも続いていくようです。まだまだ人生のスタート地点に立ったばかりの二人が、これからどんなドラマを紡いでいくのか、今から楽しみです。巻末には物語に出てきた創作料理のレシピまで掲載されていて、刺激された食欲を充たすためのサービスも怠りなし。関西人らしいサービス精神にあふれた、実に贅沢な一冊でした。プレゼントしてくれたS君に感謝です。