ゲルギエフ・ウィーンの「悲愴」〜レクイエムとしての「悲愴」〜

私が生まれ育った家では、ほとんどクラシック音楽の音源がありませんでした。子どものための名曲集のようなドーナッツ盤のシリーズと、数枚のLP。そんな、珍しいクラシックLP盤の1枚が、「悲愴」でした。モスクワの指揮者、コンドラシンの指揮したLP。兄が思いついて購入したものでは、と思うのですが、中学生くらいの頃に聞いて、かなり気に入ってよく聴いていました。第二楽章の美しいメロディーや、第三楽章のドラマティックでスポーティな行進曲などが、心に残っていたのです。

本日、友人からチケットを譲ってもらい、サントリーホールで開催された、ワレリー・ゲルギエフ指揮、ウィーンフィルによる、チャリティー・コンサート「悲愴」に行ってきました。ゲルギエフさんが、あの小学校占拠事件のあったオセチア出身のご両親を持ち、奥様もオセチアの出身、とのことで、企画されたコンサート。

あの事件のことは、同じくらいの年頃の子どもを持つ親として、本当に考えただけで背筋が寒くなるような思いにとらわれます。個人的には、ゲルギエフさんやウィーンフィルに対する予備知識よりも、あの事件に対するチャリティーコンサート、ということで、「これはどうしても行きたい!」と思い、友人にチケットをお願いしたのでした。それに、「悲愴」については、前述のとおり、昔から親しんだ楽曲ですから、交響曲の演奏会の経験のほとんどない私でも、退屈せずに聴けるだろう。

ある意味、チャリティーコンサートである、ということと、「悲愴」という楽曲の持つ意味が、私の中で結びついていなかったのです。チャリティーコンサートで、「悲愴」を演奏する、ということの意味が。

会場は、平日の昼にも関わらず、ほぼ満席状態でした。いつもの演奏会と同じような華やかな気分が一変したのは、ゲルギエフさんの友人として、演奏会の前に、元NHKモスクワ支局長、という方がご挨拶されたときでした。

「この演奏会の収益を、オセチアの子ども達と、新潟の犠牲者のために、折半してほしい」というメッセージが淡々と紹介された後、その方が、「演奏会の主旨をご理解いただき、どうぞ、演奏に入る前に、演奏者に沢山の拍手を送った後、演奏終了後は拍手はせず、皆さんで、ただ祈りを捧げてください」とおっしゃったのです。ここで、「祈り」というキーワードが、私の頭に強く印象づけられました。

そして演奏が始まります。ゲルギエフの前には楽譜はありません。当然のように暗譜です。指揮棒も持たず、指先が震えると、それに合わせて弦も震える。その瞬間から、ロシアの大地、どこまでも続く雄大な大地を、全身で叩きながら号泣する、子どもを亡くした母親たちのイメージが、私の頭の中に恐ろしく具体的な映像として浮かび上がってしまったのです。

もうそうなると、全ての楽想、全てのメロディーが、全部、そうとしか聴こえない。嘆き、闘い、阿鼻叫喚の地獄絵図。失われた命、永遠に戻らない美しい思い出。悲しみを振り払い、前進していく希望。しかし、取り残された母親は、大地に身を投げ打ってただ嘆くしかない・・・

鮮烈で、かつ具体的なイメージの奔流に、感傷的にはなるまい、なるまい、と、一瞬は抵抗しようとしたのですが、第二楽章の美しい舞曲が始まると、もうその抵抗もやめにして、ただ涙が流れるのをぬぐうしかありませんでした。交響曲の演奏会で、こんなに涙が出た経験はありません。

チャイコフスキーは、この交響曲に標題をつけることを嫌ったといいます。標題が音楽の印象を固めてしまうことを嫌ったのだ、といわれているそうです。しかし、この演奏会では、「祈り」として、間違いなく、「レクイエム」として、この曲は演奏されました。それは、通常の演奏会では許されない「方向付け」なのかもしれない。でも、チェリティーコンサートゆえに許されるこの明確な「方向付け」によって、私の中の「悲愴」は、全くその意味付けを変えてしまった。

一緒に行った女房は、カラヤンベルリンフィルの悲愴を聴いたことがあるそうです。その演奏はあくまで流麗。第四楽章の冒頭では、「1オクターブ高い音なんじゃないか」と思うほどに、硬質で澄み切った涙の音が出たそうです。しかし、今日のゲルギエフ・ウィーンの第四楽章は、全く違った。

悲しみを超えて、死んだ友達の分まで、生きて、未来に向かって前進してくれ、という、生き残った子ども達への祈りとして、第三楽章の行進曲はありました。そのメッセージ性の強烈さと、希望に満ちたエネルギッシュな音。それでも、その行進曲が希望に満ちていればいるほど、その後に現れた第四楽章の冒頭は、大地に取り残されたロシアの母親達の血の涙の音でした。何故こんなことが繰り返されるのか、という、人間の業の深さに対する、深い深い嘆きの音でした。

女房は、ウィーン・フィルがこんな音楽を作ることに驚愕した、と言います。あくまでスタイリッシュで、お洒落な音楽集団であるウィーン・フィルニューイヤーコンサートを演奏した同じ人々が、荒々しいツンドラの大地の咆哮を思わせる金管の音、どこまでも土の匂いのする、百姓女たちの嘆きの歌を見事に表現するのです。「ウィーンって、ハンガリーの隣だから、こういう土の音も出せるんだねぇ」と、その表現の幅の広さに、女房はしきりに感心していました。

最終楽章、凍りついた大地そのものの嘆きのような、土臭いコントラバスとチェロの音が消えたあと、ゲルギエフさんは動きませんでした。うなだれ、ただじっと立ち尽くしていました。その姿は、まさに、自分の肉を切られたような、悲しみと怒りに満ちていました。会場が、水を打ったような静寂に包まれる中、ゲルギエフさんは、客席の方を振り向きもせず、うなだれたまま、指揮台を降り、静かに舞台裏に去っていきました。拍手がぱらぱらと起きました。しかし、すぐに、止みました。

今までに経験したことのない、いつまでも続くのでは、と思うような、本当に重い静寂でした。今日のこの祈りが、オセチアの子ども達に届きますように。