華岡青洲の妻〜濃密な人間関係〜

本というのは、お酒に似ているところがありますよね。色んな口当たり、色んな味、色んな香りを楽しんだ後にも、酔いに似た感覚が残る。さっきまで本の中で苦楽を共にした登場人物たちが、まだ頭の中でそれぞれの人生を生きつづけているような。優れた本を読んだ後、というのは、この読後感、余韻が深く残る。お酒の酔い方にも、悪酔いや二日酔い、全然酔わない酒もあれば、心地よい酔いもあり、と様々なように、本の酔い方も実に様々。

時には、名作の誉れ高い未読の本をきちんと読んでみよう、と思い、図書館で借りてきた、有吉佐和子華岡青洲の妻」を、今朝読了。非常に濃厚な味の日本酒をいただいたような、ずっしりとした読後感。この前に、小川洋子さんの「薬指の標本」「六角形の小部屋」という小品を読んだ後だったので、これまた面白い読み合わせになりました。

以前も、小川洋子さんと池澤夏樹さんの読み合わせについて書きましたね。小川洋子さん、というのはどうも、私にとっては分の悪い読み合わせで出てくるようで、今回も、作品の良し悪し、という所は一切捨象して、自分の好みとして、「華岡青洲の妻」の方が、小説世界に入り込めました。「薬指の標本」「六角形の小部屋」も、小川洋子さんらしい、セピア色のガラス水槽の中のような、不思議な浮遊感覚のある素敵な小説。でも、「華岡青洲」のリアルな人間像の方が、確かに身近で入り込みやすい。

では、読了感は、と言えば、小川洋子さんの方が、なんだか爽やかな読了感がある気がします。以前、「同時代ゲーム」の読後の疲労感と、「花を運ぶ妹」の読後の爽快感について述べたことがありましたけど、同じように、「華岡青洲」の読後感は、かなりの疲労感も伴っています。「華岡青洲」が、濃厚で、少し黄色味を帯びたどろり、とした日本酒なら、「薬指の標本」は、さらりと淡白な白ワインを飲んだような。

何がそんなに違うのか、といえば、やっぱり、人間関係の濃厚さと、人間が数百年単位で苦しんできた業の重さ、なのかな、という気がします。「華岡青洲」は、嫁姑の凄絶な葛藤を描いていることは周知のことだと思いますが、嫁姑の葛藤、というのは、それこそ「家」という制度が成立してから今日に至るまでの数百年の歴史の中で、絶え間なく繰り返されてきた葛藤です。日本中で、この問題に直面している嫁姑が、例えば1万組いるとして(もっとか?)、過去、数百万単位の嫁姑の組み合わせが、何らかの葛藤に直面してきたはず。それを描くわけですから、作品そのものが背負っている「業」が重くならないはずはない。

さらに言えば、「華岡青洲」に描かれた「家」の中に絡め取られた人々は、「家」という狭い枠の中で、好き嫌いを越えて、お互いの顔を間近に突きあわせねばならないのです。お互いの口臭やら体臭まで同じ空気の中で共有する濃密な人間関係。その中での泥沼の葛藤。読後感がどろり、と粘るのは当然のこと。

対して、小川洋子さんの描く世界は、この人間関係がやけに希薄です。標本作成士と少女のセックスや、「六角形の小部屋」で、恋人に嫌悪感を感じる主人公が陶芸家と交わるシーンが、共に、畳の上ではない、極めて硬質な場所(使われなくなった大浴場の浴槽、陶器の残骸の上)で行われるのも、生々しい人間の体温や体臭といったものから遠く離れた、妙に観念的な肉体同士の交わり、という感じがします。人々は決して、顔突き合せない。直接のふれあいがない。人々の間には、必ずモノが介在している。浴槽。陶器。靴。六角形の小部屋に至っては、会話を交わす相手すら消滅してしまう。

華岡青洲」の魅力は、研ぎ澄まされた会話です。ささいな言葉のやりとりが、全て二面性を持っている。表面上は賢母・賢妻同士の麗しい会話でありながら、その裏にトゲや毒が込められている。スタンダールの「赤と黒」で、女性の一挙手一投足に無限の意味を読み取って苦悩する主人公を思い出す。濃密な会話。濃密な対話。「華岡青洲」が舞台作品になった、というのも、納得できる気がする。

現代社会は、こういう濃密な会話・対話を失ってしまったのだなぁ、と思います。現代作家には、そういう対話を描くことができない。平田オリザさんが、「日本には昔から、対話という形式がなかったのに、演劇という表現形態が成立しうるのか」と疑問を呈されていましたが、日本が会話を失ったのは、割りと最近だったのでは、という気がします。かつての日本には、非常に豊穣で多層的な意味空間を内包した言葉のやりとりがあり、それを楽しむ会話の文化があったはず。歌舞伎のセリフのやりとりにも見られるセリフの多層性。「華岡青洲」の登場人物たちは、相手の言った言葉の裏の意味に苦しみ、自分の言った言葉の思わぬ効果に裏切られ、のっぴきならない人間関係の網の中でもがくのです。しかし、現代社会は、独り言と怒号以外の言葉を失ってしまったのかもしれない。このネット上の日記、というのも、考えてみれば、相手不在の独り言ですよね。

華岡青洲」の終盤で、もう一つ慄然としたのは、「女」という生き物の「業」でした。「華岡青洲」は、構造的に推理小説のような謎解き小説の要素があります。それは、美貌の誉れ高かった姑の於継が、年老いても常にその美貌を失わなかったのは何故か、という、何度も繰り返される嫁、加恵の疑問=謎です。この謎に、終盤になって、「周囲から常に注目されていたため」、という答えが与えられる。そして同時に、青洲の賢妻として周囲から注目の的となった加恵が、姑と同様、背筋を伸ばした凛とした美しさを周囲に保つようになることで、嫁姑は「女」という共通の「業」で結ばれるのです。

人間の業、女の業、それを多層的な言葉の応酬とその効果を丹念に描くことで描ききった小説。やっぱり、名作といわれる作品は、ほんとに奥が深いです。