オーケストラにおける鉄の規律/演奏するために集うのか、集うために演奏するのか

今日は、週末のS弁護士宅での音楽談義の中で、印象に残ったお話を紹介します。

以前、この日記でも書いたのですが、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」を日生劇場に見に行った時、ボヘミア・オペラの時に感じた音の厚みをあまり感じなかった、という話になりました。この話を、以前、あるところでしたら、音楽通のある友人が、

「日本のオケの弦パートが、そんな底鳴りのする音が出せるわけないよ」と。

「日本のオケの弦パートは、自分の前のプルの人の音より大きな音を出しちゃいけないんだよ。第二プルは第一プルより大きい音を出しちゃダメ。第三プルは第二プルより大きい音を出しちゃダメ。第四プルぐらいに行ってご覧よ、ほとんど音なんか出してないんだから。日本のオケの弦パートにはそういう鉄のヒエラルキーがある。ヨーロッパのオケのように、全員がわっとあらん限りの音を出す、なんてことはあり得ない。そんな日本のオケに、重厚な音なんか出せやしないよ。」

私はオケに詳しいわけじゃないので、その話を聞いて心底驚愕したのです。ホントかよ。クラリネット吹きのS弁護士に聞くと、彼はうなずいて、

「少なくとも、音の出だしはそうだね。第一奏者よりも先に音を出すことは絶対に許されない。僕が入ってた大学オケでも、そういう鉄の規律はあったよ。」

音の出だしを第一奏者に押さえられちゃったら、音量だって抑えられますよねぇ。とすれば、コンマスの音以上の音を出せる人がヴァイオリンパートに入ってきたとしても、その人は自分がコンマスになるまで、自分の音を出すことはできないってことか。

「管楽器でも、第一奏者と同じフレーズ感、同じ縦の音の線をきちんと揃えられることが求められる。管楽器だと競争がとても厳しいから、出来ない人は出来る人に取って代わられるだけ。そうやって、単一の楽器としてのオーケストラを作っていくんだ。」

なんだか非人間的な感じがするけどねぇ・・・という話をしながらも、S弁護士は、「でも、そうやって出来上がっていく日本のオケには、独特の魅力が備わったりするんだよ」と。

「雑味のないクリアな響きが鳴るから、20世紀音楽などの知的にくみ上げられた作品を演奏すると、欧米のオケには真似のできない、曲の新しい魅力を掘り起こせたりする。ロマン派だの、ヴェルディだのをやると、欧米のオケの厚みには絶対かなわないんだけどねぇ」

女房も、「そういえば、日本でも有数の実力派合唱団が、海外のコンクールに出場したときにね」という話をする。

「海外のコンクールというのは、合唱団の総合力を見る、という形式が多くて、課題曲も、ルネッサンスからロマン派、20世紀音楽からコンテンポラリーと、とても幅が広い。その課題曲を、数日間に分けて、色んな合唱団が演奏していく。古典をやっている初日あたりは、日本の合唱団の評価はさほど高くない。特にロマン派あたりだと、全然評価が低い。」

これが、20世紀音楽やコンテンポラリー、となっていくと、急激に評価が上がっていく。最後の現代曲あたりになると、聴衆がスタンディングオベーションしかねないほど、最大級の賛辞が与えられるようになる。

「やっぱり、ロマン派の脂ぎったお肉料理の文化じゃないんだよ。楽譜に忠実に、雑味がない演奏をする。かといって、そこに哲学がないわけじゃない。言ってみれば、和風だしの日本料理のような、ほのかな隠し味の利いた美味しい料理が得意、というか。」

集団だからこそ余計に、国民性が反映されるのかもしれないねぇ、という話になり、ベルリン・フィルウィーン・フィル、そして、S弁護士が大好き、というドレスデン国立管弦楽団の話などに四方山話は広がっていく。話は、S弁護士がアメリカのユース・オケの練習に参加した時の話へと。

「びっくりするくらいに合わせの練習時間が短いんだよ。でも、個々人の技術はすごく高い。各人は個人個人でものすごく練習して、自己鍛錬していて、合わせの時間というのは、そういう個人の練習成果をぶつけあって、調整する場、として意識されている。」

日本のオケだと、鉄の規律を身につける時間、各パートのコンセンサスを作っていく時間として、合わせの時間がすごく重視されたりする。第一奏者と同じフレーズ感、同じ作り方を体得するための試行錯誤の時間。

時々、それが勘違いの元になって、「コンセンサスを得ること」自体が演奏の目的になってしまうのが、日本の音楽団体の特徴だったりする。演奏の「一体感」を求めて音楽団体に所属するならともかく、集団としての「一体感」だけを求めて音楽団体にやってくる人が結構出てきたりする。

演奏するために集うのか、集うために演奏するのか、という本末転倒なのですが、時々、そういう本末転倒の結果が、演奏そのものの足を引っ張ったりする。「団員はみな平等」なんて言い出して、練習にほとんど出てこないで飲み会の席にしか顔を出さない団員さんが、みんなに妙に重宝されたり・・・飲み会、というのは極端ですが、演奏旅行の宿の手配が異様に得意な団員さんが、練習にはほとんど顔を出さないのに、演奏旅行の前になると突然やってきて、おかげでハーモニーがめちゃめちゃになるんだけど、みんなにはやけに重宝されている・・・なんてことは、どの団体にも身に覚えがあることじゃないかな。

逆のケースもあって、音楽の質を高めることに貢献している人が、妙にないがしろにされたりすることもある。私にも経験があるんですが、女房が団員として関わっていたある合唱団のステマネを仰せつかった時に、「ステマネのギャラを出していいものだろうか」と論争になったことがありました。団員さんの配偶者に演奏会を手伝ってもらったからといって、ギャラを出すのはおかしいんじゃないか、という議論になっちゃったんだって。

「だんなさんにボランティアで手伝ってもらうことなんて、よくあることじゃないの?どうして、このだんなさんだけ、特別扱いしないといけないの?みんな平等じゃないの?」・・・という話。ステマネの仕事って、そんなに誰にでもできる仕事じゃないし、「ボランティアで手伝う」レベルの話じゃない、演奏会の可否を左右する仕事だと思うんだけど、「ステマネって何?」というレベルから説明しなきゃいけない合唱団だったので、主催者の方は説明に随分苦労されたそうです。おかげさまで、ギャラはいただけることになって、主催者の方にはほんとに感謝したんですが。

オーケストラも合唱団も、相当の規模がないと出来ないこと、というのがある。規模を拡大するためには、色んな努力が必要だし、規模を維持しながら、演奏の質を維持するのにも工夫が必要。その結果としての鉄の規律があったり、不思議な共同体幻想や、平等主義幻想があったりする。日本には真の個人主義が存在しない、なんて話をよく聞きますけど、音楽の世界でも、そういう民族の個性みたいなのが表に出て来るんですねぇ。