読者の側の「旬」

先日から、また読書の虫が騒ぎはじめて、池澤夏樹さんの「カイマナヒラの家」と、小川洋子さんの「妊娠カレンダー」を読む。なんとも対照的な文章で、すごく面白い「読み合わせ」になりました。

今の自分の感覚では、やっぱり池澤夏樹さんの文章の方が好きです。お二人の文章を言葉で表せば、多分両方とも、「透明感」とか、「透徹」とか、「客観的」といった言葉が並ぶんじゃないか、と思います。人間感情の生々しさから少し離れた所に視点を保っている感じ。

そうなんだけど、やっぱり、男性的な視点と女性的な視点の違い・・・なんでしょうか。池澤さんの文章には、硬質な手触りがあります。水を触っても、さらさらしている感じ。まとわりつく感じとか、べたついた感じがしない。

小川さんの文章には、どこかねっとりした感じがします。グレープルフーツのジャムが口のまわりにべたべたくっついているような。手のひらに粘っこい液体がたらたらと流れるような。どこか生臭いにおいがする。腐ったレタスの葉、ぶちまけられた生卵。超音波診断のゼリー。あらゆるところに、粘着性の液体のイメージが点在している。

不思議な気がするのですが、例えば自分が高校生とか大学生の頃だったら、小川さんの文章に一種のシンパシィを感じたかもしれないなぁ、という気がします。この生理感覚というか、内臓感覚のようなものが、しっくりきたかもしれない。ホラー映画が好きで、クロネンバーグ監督の映画とか見まくっていた頃なんか、こういうねっとりした生理感覚が自分の中で共感された時期だった気がします。

でも、最近は、もっとドライな感覚が肌に合うんです。今の自分には、池澤さんの文章の方が肌に馴染む。以前、作家の「旬」の話をちらりと書いたことがありますけど、多分、読者の側にも、その作品世界に入り込める「旬」の時期、というのがあるんでしょうね。

読書、というのは、本との出会い。人間同士の出会いに似て、様々な出会いがあります。最悪の出会いもあれば、素晴らしい出会いもある。街角ですれ違うだけのような軽い出会いもあれば、一生を左右する出会いもある。どんな出会いにも、タイミングが大切。

でも、小川さんの小説も嫌いではありません。泥の温泉につかっているような不思議な心地よさがある。これからも、少し追いかけてみたい作家に出会えた気がしています。