「花を運ぶ妹」〜対決しない健康さ〜

先週末、以前購入していた、池澤夏樹さんの「花を運ぶ妹」を読了。丁度、大田区民オペラ合唱団の演奏会の直前に読み終えました。この充足感、幸福感をそのままに、演奏会に臨むことができました。

文庫本の解説には、「マシアス・ギリの失脚」を超える傑作である、という文章が寄せられていましたけど、優劣をつけることの意味はあんまりない気がしました。比較して論じることには意味がある気がしますけど、どちらが優れているか、という議論には意味はあまりない。どちらが好きか、といえば、個人的には、「マシアス」の方がやっぱり好きです。でも、「花を運ぶ妹」を読了した時の充足感と、「マシアス」の時のそれのどちらが大きいか、といえば、それはもう優劣なんかつけられない。どちらも、本当に素晴らしい作品です。月並みだけど、そうとしか言えない。

「マシアス」もそうだし、池澤さんの長編小説の読了感には、一冊の本を読み終える、という作業の後の疲労感が、不思議とないのです。残っているのは、充足感と、解放感、爽快感。「花を運ぶ妹」が、明らかに影響を受けたと思われる、大江健三郎の「同時代ゲーム」を読み終えた時の感覚とは全然違う。「同時代ゲーム」を読み終えた時には、確かに充足感もあったのだけど、すごい疲労感も同時に襲ってきました。でも、「マシアス」にも、「花を運ぶ妹」にも、そういう疲労感がない。あるのは、なんとも言えない心地よさ。

同時代ゲーム」には、大日本帝国に象徴される「近代国家」に対する、土着の「村」という神話世界の逆襲、という、強烈な対決姿勢があった。「近代国家」自体が、猛毒性を帯びたものとして捉えられているから、神話世界である「村」も、強い毒で対抗せざるを得ない。毒を帯びた対決は、近親相姦に代表される異常な状況を生み出します。その状況の苛烈さに、何だか疲れ果ててしまうんです。原色が踊り狂う抽象画をひたすら見せられたような。

「花を運ぶ妹」には、確かに「同時代ゲーム」に共通する要素が強くあります。明らかに「同時代ゲーム」を引用している部分もありますし。構造としても、主人公たちを不幸が襲い、巫女としての「妹」の霊力でそれを撃退しようとする、という基本構造を共有している。

でも、「花を運ぶ妹」においては、「妹」の霊力は、襲いくる不幸に対決しようとして行使されるのではないのです。「同時代ゲーム」においては、村とその外、という二元性、その間の対立が強く印象されていましたけれど、「花を運ぶ妹」においては、そういった二元性すら感じられない。善悪すら一定しない、変幻自在のバリの神話の神々のよう。

では、「妹」の霊力は、どのように行使されるのか。それは、神々を自分たちの味方につけよう、という「交渉」のために行使されているように見えます。哲郎の不幸は、彼が、インゲボルグに象徴される西洋文明がもたらした、ヘロインという毒、を、アジアの神々の地、バリに持ち込んだことから始まっています。ヘロインという西洋文明がもたらした毒に侵された哲郎を、毒そのものとして排除しようとする、バリの神々の自浄作用のようなもの。その中で、哲郎そのものを排除しようとする神々に対し、「哲郎の中の毒だけを排除し、哲郎自身は返してやってください」という交渉を、カヲルが必死に行っていく過程が、ドラマの軸になるのです。

ここでは、戦いは、人間同士の戦いではない。むしろ、毒を含んだ西洋文明の神と、その毒を排除しようとする、アジアの精霊たちとの戦いが描かれているのです。その戦いも、激しいものではない。むしろ、波が、岩にこびりついた重油をゆっくりと洗い流していくような、そういうゆったりとした自浄作用のようなもの。哲郎も、カヲルも、この、長く、たゆたうような神々の戦いの中の小さなコマでしかない。岩にこびりついた重油の中に絡め取られた、小さなヤドカリのような。ヤドカリが、「重油はきれいにしてほしいけど、僕まで流さないで」と、押し寄せる波に必死にお願いしているような。

この巨大な世界観の中では、巫女であるカヲルも、毒を背負った哲郎も、自らが神と変じるための異常さをまとう必要がない。人が神になる瞬間がない。「同時代ゲーム」で、妹が、最終的には神の子供を宿すに至ったのとは対照的。ヤドカリは、決して波にはなれない。人はあくまで人として、神の存在を感じ取り、その神に、精一杯のお願いをするだけ。そんな普通の人々の営みが描かれているところに、池澤さんの「健全さ」を感じるのです。

人々が異常じゃないから、読者も疲れない。自分たちと等身大の人々が、いかにして神々の好意を勝ち取るか、という過程を、はらはらしながら追いかけていけばいい。それは、「南の島のティオ」で、死にかけた子供を助けるために、巨大な神々に議論を挑みかける健気な娘の話を読むときと、同じ感覚。

しょせん、人間は、神々の前ではちっぽけな存在に過ぎない。岩の文明である西洋文明の神に対して、水の文明である東洋文明の神々が戦う。物語の背景では、そういう壮大なストーリが展開されているにもかかわらず、この「花を運ぶ妹」は、決して大上段にその闘争を描かない。まさに水彩画のように、原色のない、淡い色合いで、ゆったりとした自浄作用として、その闘争を捉えるのです。

なかなか上手く論じることができないけれど、自然対人間、でもなく、人間対人間、でもない、自然同士の対決の側で、ひたすら自分の無事を祈る人間の姿。そういう池澤さんの世界観は、すごく「健全」、だと思う。村上春樹のように諦めるのでもなく、大江健三郎のように全身をトゲだらけにして戦うのでもなく、ただ見つめる。ただ聴く。そして、お願いする。昔の人間って、そうやって暮らしてきたんじゃないのかなぁ。