色んな人の意見を聞くこと。引き出しを増やすこと。「ティオの夜の旅」の解釈など、もろもろを

今日は割ととりとめなく、色んな話題を書き散らしちゃいます。というのも、この7月には、ガレリア座の本番と、その二週間後に合唱団麗鳴の演奏会を控えていて、なかなかハードな(無謀な?)月になっていて、日々色んな方面からのインプットがあって外部刺激が多いんですね。自分の中で混乱することもないわけじゃないけど、でも、1つの団体でべったり、という感じで活動しているよりも、確実に自分のチャンネルは広がっていく気がしています。歌、という表現には、たぶん色んなチャンネルがあって、バンドのボーカルやるのも歌の表現だし、カラオケ教室もそうだし、オペラも合唱も、歌、という表現の1つのチャンネルにすぎない。そこに優劣とかはきっとなくて、その都度使う「引き出し」が変わるだけなんじゃないかな、と思います。チャンネルを増やすことで、自分の引き出しは確実に増えていく。

そういう「引き出し」をたくさん持っていると、一つの表現の幅も広がる。カラオケですごく使える発声法を身に着けていると、それがオペラの舞台表現で役に立つことがきっとある。オペラの発声法はバンドのボーカルやるときだって使えるし、芝居の発声法や感情を声に乗せる手段っていうのは、きっと色んな歌の表現に役立つはず。

この日記でも一度書いたことがあるんだけど、一流オケのティンパニー奏者に、「あなたの演奏がそんなに素晴らしいのはなぜですか?」と聞いたら、ものすごくたくさんの種類のバチを見せてくれて、「この曲のこの場面で使うバチ、というのを全部わかっていて、そのバチの数をたくさん知っていること」と言われた、という話がありました。「バチ」を「引き出し」と言い換えれば、同じことを言っていると思います。

先日、ガレリア座に、日本オペレッタ協会の寺崎先生がおいでになって、一部の場面の演出を付けてくださったのですけど、これがとても面白い経験でした。ガレリア座には不世出の演出家であるY氏がいるのだけど、彼が示しているものと、寺崎先生が示すものが、基本軸でほとんどぶれていないことにまず驚く。やっぱりウィーンオペレッタの軸をつかんでいる人の言うことって似通ってくるなぁ、と思いながらも、やはり違う人間ですから、指示や指摘も変わってきます。そうやって違う指示を出された時に、役者としては、Y氏の今までの指示の中にある譲れない軸をしっかり自覚した上で、寺崎先生の出す指示の両方を満たすことができる「第三の道」を探し出せないかしら、と考える。そこで、自分の中の「引き出し」から、「これかな」と思うものを引っ張りだして演技をする。受け入れられればうれしいし、そうじゃなかったら別のものを引っ張り出してこないといけない。それはものすごく緊張を強いる、でもきわめて刺激的な時間でした。

話は変わって、今日の麗鳴の練習でのこと。「ティオの夜の旅」の終曲を練習したんだけど、後半部分になって、全体の音量があがってきて、自分の声が全体の中で溶けているのかどうだかわからなくなってしまう瞬間があった。不安になって、中館先生に練習の後に、「私の声、全体の中から飛び出てませんでしたか?」と質問をしたら、先生はすごく丁寧に教えてくれました。その時の会話を、例によって若干の脚色を加えつつ。

中館先生「ティオの終曲ではそんなに気にならなかったですね。Singさんの発声が、ほかのメンバーの発声の中にきちんと溶けていたと思いますよ。でも、信長先生の「ワクワク」とかを歌っている時には、ときどきSingさんの声が飛び出て聞こえることがある。それはSingさんが、オペラやオペレッタをずっと日本語で歌う、という経験をしてきたために、日本語の歌詞をちゃんと客席に飛ばそうとして、母音を浅めにすることがあるからだと思うんですね。」

私「そういえば、今日、パート練習を指導してくれたKさんに、『Singさんの声って時々ミュージカルぽくなりますね』って言われましたね。二期会的な発声じゃなくて、劇団四季みたいな発声になる」

中館先生「そう。そうすると言葉は飛ぶかもしれないけど、アンサンブルとして、あるいはクラシック歌唱としてどうだろうか。もちろん、合唱団発声の弱点というのもあって、日本語が明瞭に聞こえない所はSingさんの発声を逆に見習わないといけない部分もあるんだけど、もっと深い豊かな倍音が欲しい時には逆に浅薄な響きになってしまって美しくない。そういうことも含めて、状況にあった色んな母音の使い分けができるようにならないと。」

うちの女房の意見、というのも、私にとっては非常に大事なコメントだ、というのも昔この日記で書いたことがありますけど、とにかく色んな人の意見を虚心坦懐に聞くことって大事。でも、たくさんの人たちの色んな意見をただ聞いて100%鵜呑みにして再現しよう、とするのはきっと間違っていて、色んな人の意見の中で、自分が腑に落ちる意見や、納得できるものを聞きながら、誰もが満足できる自分なりの「引き出し」を作り上げることが大事で、それをできるのは結局自分自身でしかない。

また話は全然変わります。今日の午後は麗鳴のベースのパート練習があって、ベースのメンバーとKさんとで、登戸にあるイノウエホールというところにこもって練習していたのだけど、大学の頃やってすっかり自分のものにしていたはずの「ティオの夜の旅」が、また新しい顔を見せてくれて、これまたすごく刺激的な練習になりました。この合唱曲は、池澤夏樹さんのちょっと難解な歌詞もあって、色んな人が色んな解釈をする余地があり、そこがとても楽しい曲なんだけど、今日、曲の中心にあたる「環礁」という曲を原案にした、「夏の朝の成層圏」という小説のあらすじを、ベースのBさんが教えてくれて、これがすごく面白かった。

詳細は省略しますけど、木下牧子先生が、「ティオの夜の旅は、1・3・5曲が軸になっていて、2・4曲は間奏曲なんです」という解説を書かれていたことと相まって、自分の中ですごく腑に落ちたんですね。自分なりの納得の仕方でいえば、1曲目が南の島に横溢する原初の神性とそれに対する人間の畏怖、という、極めて原始的な所を歌っていて、3曲目は、文明化された人間とその原初の神性との間の交合と葛藤(結局それは最終的には交わることができずに破綻して終わるのだけど)、そして5曲目が、小説「南の島のティオ」でも描かれていた、文明と原初の神々とか仲良く共存している理想の世界における一種の祝祭として描かれていて、その間に、原初の神々、というけれど、それは決して神々ではなくて、人間自身が自然に自らを反映しているものにすぎず、結局は人間対自然、もっといえば、自然の一部としての人間、という高みに立った視野が示される。そういう、自然と人間の間のあり方、としてこの曲の全体像が自分なりに見えてきて、それが自分ではすごく腑に落ちた。

全然違う解釈を持っている人もいるだろうけど、いずれにしても、色んな外からの刺激に対して心を開いていないと、自分の中の引き出しも、自分の中の納得感も広がっていかないと思うんです。二つの団体の大きな本番があるこの7月、自分なりにしっかり納得できる舞台ができるように、頑張りたいと思います。