逃れられない

過去というのは、どんなにひどい過去でも、どんなに悲しい過去でも、どんなに悲惨な過去でも、どんなに馬鹿馬鹿しい過去でも、逃れることはできないんです。おんぶおばけのように人の背中に張り付いているのです。そして時々ひょいっと、頭の上から人の顔を覗き込んできたりするのです。うぎゃぁ、と喚いて逃げ出したくなっても、過去というやつはヘラヘラ笑いながら、人の肩の上でゆらゆらして、時々その薄ら笑いの顔をこっちに向ける。その顔を見せるな、と喚いても、逃れることはできないんです。

何の話だ、と言えば、宇宙戦艦ヤマトだよ。こら、そのヘラヘラ笑いを引っ込めろ。しょうがないじゃないか。私の世代の人間は逃れられないんだよ。悪いか。オレがなんか悪いことをしたってのかよぉぉぉ。

半分錯乱しておりますが、なんでこんなことを書いているか、というと、火曜日から、ファミリー劇場というCATVのチャンネルで、宇宙戦艦ヤマト第一シリーズの全話集中放送、なんて企画があって、半分以上反射的に、HDDで録画予約を入れてしまったから。CATVチャンネルでは、時々この「全話集中放送」という企画があって、HDDのハードディスクの掃除に大慌てしたりするんですが、今回は妙に屈託がありましたねぇ。以前録画したのは、「仮面ライダークウガ」の全話放送と、「白い巨塔」「古畑任三郎」「ベルサイユのばら」で、どれもうちの女房も結構ハマって一緒に見てたんですけど、今回のだけは、女房や子供に隠れてこそこそ見ないといけないような気がする。なんでだよ。アダルトビデオ見てるわけじゃないんだから、堂々と見りゃいいじゃん。なんでかなぁ。

宇宙戦艦ヤマトにはまってアニメおたくの道に踏み出し、機動戦士ガンダムでどっぷりその道に進む、というのは、私の年代のかなりの人々がたどった道です。その中でも、宇宙戦艦ヤマトにおいて、妙な屈託があるのには、何か別の理由がある気がする。

例えば、ガンダムとか、エヴァンゲリオンといった素材だと、わりと女性にも理解してもらえるんじゃないかな、という気がするんですね。実際、うちの女房もエヴァンゲリオンは面白がって見てました。(最終回を見て夫婦そろってぶっこけましたが)でも、ヤマトには、「絶対女性には分からないよ」という感じと、「ヤマトを一生懸命見ている自分が少し気恥ずかしい」感じがする。なんでだろう。

考えてみると、一つには、非常に個人的な精神史の一部を見られる気恥ずかしさ、というのがある気がします。宇宙戦艦ヤマトという社会現象の真っ只中にいた人間からすると、それを女房なんかと一緒に見る、というのは、それこそ自分の初恋の人からの手紙を見られる気恥ずかしさと同等の恥ずかしさがあるように思うんです。こんなものにのめりこんでたの、と鼻で笑われるんじゃないだろうか、という恥ずかしさと、のめりこんでいた少年時代のアルバムを見せているような恥ずかしさ。

もう一つには、宇宙戦艦ヤマト、という素材自体が、極めて、「男の子的」な素材だった、ということもあると思います。宇宙人の侵略、でっかい大砲、戦艦、秘密兵器、そして、はかなげな美女たち。当時、宇宙戦艦ヤマトの裏番組が、例の「アルプスの少女ハイジ」で、視聴率的にはヤマトのボロ負けだった、というのは偶然ではないのかもしれない。ある意味この視聴率争いというのは、男の子的なものと女の子的なものの対決における、男の子的なものの敗北だったのかもしれない。しかし、男の子的なものはカルトなところで復活を遂げる。再放送でブームに火がついた、というのも、なんともマニアの男の子っぽい現象じゃないですか。

それでも、久しぶりにみる宇宙戦艦ヤマトは、やっぱり新鮮でした。いまや地に落ちた西崎プロデューサが、絶対の自信をもってかなりの制作費をつぎ込んだおかげで、非常に優秀なスタッフがそろったんですよね。今見ても結構びっくりするような人がスタッフにいたりする。原作の松本零ニもそうですけど、舛田利雄だの、豊田有恒だの、音楽だって宮川泰阿久悠のコンビだぞ。作画スタッフもメカニックデザインも当時の第一線のスタッフがそろっている。これで面白くないはずがない。特に、第一話から前半の緊迫感はすごい。後半になるにつれて、だんだんドラマの作りが粗っぽくなってしまうのは、まぁよくある話ですわな。

でも、もう新作は作らん方がいいと思うぞ。誰が見るって言うんだよ。やめとけ。頼むから。恥ずかしいから。