男性的なるもの、女性的なるもの

昨日書きそびれた「セクシャル・マイノリティ」の話ですが、少し視点を変えて、男女の差、ということで今日は書いてみたいと思います。テーマ的には重いのですけど、あくまで個人的な感覚ということで、気軽に書いてみたいと思います。

男性・女性の性差の問題、というのは、外見上に現れた性差で語られるべきではなく、脳の働き方の差、として捉えられるべき、というのが、最近の流れですね。なので、男性ホルモンによって規定された「男性的な脳の働き」、女性ホルモンによって規定された、「女性的な脳の働き」を、面倒なので、この文章では、「男性的なもの」「女性的なもの」と表現してしまうことにします。

娘が出来てから、この男女差、というのが子供のころからきちんと存在していることに驚きます。肉体的な差、ではなく、行動上の差。別に、周囲がそのように教育した、ということではなく、明確に違う。興味をもつ対象が全然違うんですね。

男の子は、例えば、電車とか、車といった乗り物に興味を示す。何か買っておいで、といえば、剣とか盾とか銃のおもちゃか、電車・車です。遊びの基本は「戦い」。植物の名前や動物の名前に興味をもって、図鑑とかに夢中になる子もいる。絵を描かせると、魚の絵とか、車の絵とか、そういった「モノ」の絵を描くことが多い。

女の子は、とにかく「ごっこ遊び」が大好き。おままごと、おかあさんごっこ、幼稚園ごっこ、といった、ロールプレイングゲームです。役割分担をした上で、ストーリーや、シチュエーションを設定するのが上手。興味の対象はアクセサリーや洋服、こまごましたキャラクターグッズなど。絵を描かせると、人の絵を描くことが多い。お母さんとお父さんと自分が、どこかで何かをしているところ、といった、「コト」の絵を描く。

面白いなぁ、と思うのは、こういう格差がある中で、外見的には男の子でも、女の子遊びが好きだったり、上手だったりする子がいることです。それを、性同一化障害、という流行の言葉で括るのは非常に危険だと思う。というのも、かくいう私自身が、そういう男の子だった記憶があるんですね。男の子遊びよりも、おままごと遊びが好きだったし、電車や車に興味を持った記憶なんかない。かなり、女性的な脳を持った男の子だったんじゃないかなぁ、と思っています。

自分自身の精神的傾向を振り返ってみると、中学・高校くらいまでは、かなり女性的な感性を保っていたような記憶があります。その感性が、その頃書いていた詩だの小説だのにも反映している気がする。でも、そういう傾向って、変化してくるんですね。

その変化を最近すごく自覚したのは、久しぶりに、井上靖を読んだから。井上靖さんの「敦煌」とか、割と好きだったんですけど、「楼蘭」「洪水」といった短編を昨日読み直してみて、実に男性的な文体にしびれました。かっこいいなぁ、と。

以前、読書について、読者の側にも「旬」がある、という話を書きましたけど、中学・高校時代の女性的な感性を持っていた頃には、小川洋子太宰治北杜夫のような、ねっとりした粘着質の女性的な文章が好みだった気がします。最近ではやっぱり、池澤夏樹だったり、井上靖が肌に合う。つまり、最近の自分はかなり男性的な感性が勝っているんですね。自分の精神史の中で、男性的なものが優勢な時と、女性的なものが優勢な時がある。そういう変化があるんだなぁ、というのを、井上靖さんの小説を読みながら実感したんです。

男性と女性というのは単なる精神的な問題で、人間の精神というのは年齢と共に変化します。成人するまでの間は、人間は多かれ少なかれ、男性と女性の間で揺れ動いているものなのかな、という気がします。その中で、多くの人が、ある程度、一方の性の側で安定していて、その性は外見的性と大抵の場合一致している。でも、自分の経験で言えば、それは本当に精神的なもので、人によっては、男性と女性の間を揺れ動いたり、あるいは、外見的性と逆の性の側で安定してしまう人もいる。最後の例が、いわゆる「性同一化障害」ということになるんでしょう。

以前、中学生くらいの女の子が、「自分は性同一化障害かも」と悩んで、家族に相談したりする姿をおいかけたTV番組があって、非常に不愉快になったことがあります。ワイドショー的な興味本位の取り上げ方も不愉快だったのですが、その子自身が、思春期の精神の揺れ動きに、流行の「性同一化障害」という言葉を当てはめてしまっただけ、という感じがあって、危険だなぁ、と思った。

誤解のないように言っておけば、私は世の中の「性同一化障害」の患者さんたち全般を取り上げて言っているのではありません。「性同一化障害」の患者さんたちで、性転換の措置を受けている人たちは、みんな成人していますよね。成人に至る長い自分の精神の揺れ動きの中でも、一貫して自分の外見的性別に違和感を感じているのであれば、それは確かに是正するべきだと思いますし、そういう、精神と肉体の不一致が発生する、というのは、私自身の経験から言っても、非常に納得できることなんです。

男と女の間には、なんて、流行歌がありますけど、確かに越えられない大きな壁がある。でも、すくなくとも精神的には、そこをゆらゆらと移動することはできる。そういうバランス感覚を、「最近の人は中性化している」というのなら、別にそれって、悪いことじゃない気がします。