オペレッタの「粋」

乞食学生のクライマックスシーンの曲を週末に練習するので、通勤電車の中で音源MDと楽譜でおさらいをしています。オペラやオペレッタのクライマックスシーン、というのは、全体のドラマがぎゅうっと凝縮されてくる場所ですから、そこで用いられる音楽、というのは、オペラ全体、オペレッタ全体のエッセンスが凝縮されているところ。乞食学生のクライマックスシーンの曲も、例に漏れず、登場人物たちの思惑がぐぐっと一点に集中していく、実に面白い曲になっています。

でもその一方で、オペレッタのクライマックスはあくまで「粋」で「お洒落」なんですね。決して悲壮な感じにならない。勿論、全てのオペレッタがそうではなくて、後期オペレッタレハールの作品なんかは、悲劇的なアンハッピーエンドが用意されていたりしますけど、ミレッカーの乞食学生あたりでは、どこまでも洒落ていて、余裕がある。

乞食学生のドラマ構成の基本は、オルレンドルフを中心とする悪役たちと、パルマティカを中心とする善玉たちの対立の中で、ジーモンとヤーンという正体不明の登場人物が、「自分は何者であるか」という自己のアイデンティティを確立していく過程のドラマ、と言えると思います。当初、オルレンドルフ側の「コマ」として動いていたジーモンとヤーンが、いつしか善玉側にシンパシィを感じるようになり、さらに「乞食学生」ではない、別の何者かに変容していく。

クライマックスシーンに至るまでの曲では、悪役と善玉の対立がかなり明確に提示されています。悪役たちと善玉たちが全く違う旋律を歌っているアンサンブルが多い。悪役たちに騙される善玉たちが楽しく歌うのと同時に、悪役たちが、「しめしめ」と歌っていたりする。表と裏の絡み合い、のようなアンサンブル。

ところが、このクライマックスの曲では、悪役と善玉が、一つの旋律を共有している。「ジーモンの正体は何なのか?」という同じ疑念を共有していくんですね。その中で、ジーモンは、ただの乞食学生から、アダム男爵に、そして、真の英雄へと変容していく。それまで別々の思惑を持っていた者たちが、一点にぐぐっと集中していく感じ。

その集中の極限に至って、「あなたが誰であろうが、私はあなたを愛しています」というヒロイン、ラウラのソロが響き、一気にクライマックスへ。生きるか死ぬか、という瀬戸際の中で、真実の愛が歌われる、という、非常に感動的な場面のはずなのですが、そこで歌われる曲は、決して悲壮ではない。明るく、解放感に満ちている。へんな話、「お前、もうすぐ死刑になるかもって時に、よくそんなに楽しそうに歌ってられるなぁ」という感じがする。

そこがオペレッタの「粋」なのかもしれませんねぇ。生も死も、身分もカネも、そんなものは全部吹っ飛ばしてしまって、男と女の恋に全てを還元してしまえば、そこにあるのはあっけらかんとした解放感なんです。全ての束縛から逃れてしまった明るさ。ぐぐぐっと集中してきた後に、そんなあっけらかんとした旋律が登場してくると、なんだか逆に目頭が熱くなるような、不思議な感動があります。

昔、「王子メトゥザレム」の台本を書いたときに、ほとんどそっくりと言っていいような、クライマックスシーンを用意したことがあります。母国の革命によって領土を失い、根無し草になってしまった王子メトゥザレムが危機に陥ったとき、「あなたが王子でも、一文なしでも、私はあなたを愛しています!」と、王女プルチネッラが叫ぶ、というシーン。なんだ、そっくりじゃん。

でも、この時に2人が歌う曲として選んだのは、「五月の歌」という、優美でかつ少し哀愁を帯びたワルツだったんですね。今から思えば、ここであっけらかんとした長調の歌を持ってこなかった、というのは、非常に日本人的なウェットな選択だったのかもしれない。もちろん、「メトゥザレム」の楽曲全体が、わりとメロウな曲が多かった、というのもあるんですが。

全然関係ないかもしれないんですが、昔のテレビドラマの「スタートレック」で、エンタープライズ号がものすごい危機に陥った時、カーク船長をはじめとするクルーたちが、妙に落ち着いているように見えて、不思議だった記憶があります。日本の刑事ドラマなんかだと、登場人物たちが汗だの涙だの血だのよだれだのハナミズだの、顔から出せるあらゆる液体をだらだら流しながら危機に直面するシーンが多いのに、カーク船長もミスター・スポックも、なんとも涼しい顔をして、「もうすぐシールドが破られます」なんて言ってる。シールドが破れたら、あんたら死ぬんだぞ。わかっとるのかい。年寄りって、よくTVに説教するよね。まだ40前なんだからね。はいはい。

感動的なクライマックスに現れる爽快感。この心地よさ、この粋が、オペレッタの魅力なんだなぁ。