セリフ

昔から、セリフの覚えはいいんです。人の名前とかは全然覚えないし、物忘れもひどいんですがね。ほんとに、あきれるほどよく忘れます。勢いよく立ち上がって、「あれ、何をしようと思って立ち上がったんだっけ?」なんて思うことなんてしょっちゅうです。最近のアイドルの名前なんて永遠に覚えられません。買い物に行く時は、買い物リストを4歳の娘に覚えてもらいます。娘の方がよく覚えてます。偉いぞ。

昔から、セリフは通勤電車の中で覚えます。家で台本に向かう、ということはほとんどやったことがありません。全て通勤電車です。仕事が厳しくて、家にはほんとに寝るためだけに帰っていた頃のなごりだと思います。頭の中でセリフを言っているのですが、どうしても、口元とか、多少顔の表情も動いたりするので、多分、近くにいる人たちは気持ち悪がっていると思います。電車の中でセリフを覚える行為は、周りの方の迷惑になりますので、お控えください、なんて車内放送で言われたらどうしよう。隣の茶髪の兄ちゃんに、「気持ち悪いんだよ!」なんて殴られたらどうしよう。そういう緊張感が、セリフの覚えをよくするのだと思います。全然違うと思います。そうですね。

先日、「マリツァ伯爵令嬢」の曲を演奏することにした、というお話を書きましたが、折角なので、その前ゼリフもやっちゃおう、と思っています。ジュパンという軽いノリの男爵が、自己陶酔しまくりながらマリツァに求婚する長ゼリフ。一生懸命覚えたかいあってか、7年以上前だと思うんですが、前半部分は覚えていました。さすがに後半部分を忘れてしまっていて、昔の台本だの、公演ビデオだのを探しているのですが、散逸してしまっていて、出てこなくて困ってます。どなたか、ガレリア座の「マリツァ」をごらんになった方で、あの時のジュパンのセリフを覚えている方がいらっしゃったら、私までご一報ください。そんな人いるわけないじゃん。で〜す〜よ〜ね〜。

セリフの覚えが早いからといって、お芝居が上手とは限らない・・・というのが、怖いところだよなぁ、といつも思います。女房との二人芝居だと、女房のセリフ覚えが非常に悪い。いつまでたっても台本を手から離さない。私はとっくに台本なしでべらべら喋っているのに、しょっちゅう、「なんだっけ?」とぼける。不愉快である。そのくせ、本番になると、セリフが入っているだけじゃなく、私よりも味のある演技をしやがる。お客様の評判も、大抵女房の方がいい。非常に不愉快である。

セリフを覚える、というのは、まずは言葉の羅列を情報として身体に覚えこませることです。でも、セリフというのは、言葉の羅列ではない。その後ろに、もっとたくさんの、見えない情報が隠れている。セリフを口にすることで、役者が付け加える情報もある。書かれたセリフは、単なるテキストに過ぎない。問題は、どういうコンテキストで、そのテキストを語るか。ずっとこの日記で取り上げつづけている話です。

テキストを早く入れる、というのは、役者としてはまず「できて当たり前のこと」。問題はその先なんですよね。以前、松本幸四郎さんが、市川染五郎さんとの二人芝居をやっているときに、本番の前日になって台本が大幅変更された、といって、「ほとんど全部覚え直しです」と、げっそりした顔でおっしゃっていたのを覚えています。(脚本は、あの三谷幸喜さん。新撰組はちゃんと脚本間に合ってるんだろうな?)それを覚えてしまう、というのも、さすがプロ、と思いますけど、覚えることというのはスタートに過ぎない。というより、この場合には、テキスト以外のさまざまな部分を煮詰めているうちに、テキストを改編せざるを得なくなった・・・という、逆転現象がおこったんじゃないか、と想像しています。「こういうキャラクターである以上、このセリフはおかしい」という感じ。そうなってくると、テキストから入る、というモノ作りのアプローチ自体が違う、ということになる。

セリフなしで、ただシチュエーションだけを決めて、お芝居を作っていく、というアプローチをする劇作家は結構います。でも、加藤健一さんのように、「セリフの一つ一つを、きちんと吟味しながら舞台を作りたい」とおっしゃる方もいます。私達がGAGという劇団でやっているのも、どちらかといえば、ウェルメイドの台本を見つけてきて、セリフを吟味しながら一つの舞台を作っていく、というアプローチです。だから、テキストは大事にしたい。でも、大事なのはテキストだけじゃない。テキストを記憶するだけなら、「こんな長いセリフ、よく覚えましたね」という、学芸会レベルのお褒めのお言葉を頂くだけ。お客様の感動を呼び起こすのは、そのテキストから喚起されるものなんですよね。