読み物としての台本

ガレリア座の次回公演、「モンマルトルのすみれ」の台本が仕上がってきました。まだしっかり読みきれていないのですが、物語はとても楽しく、そして切なく、実にいいお話です。メロディーラインもとても美しい。どうしてこのオペレッタが埋もれてしまったのか、理由がよく分からないくらい、いいオペレッタです。

ただ、話がとても面白い分、セリフのやりとりは実に軽妙で、お芝居はとても濃密です。ちょっとしたセリフの一つ一つを適当にこなしてしまうと、キャラクターがぼやけてしまって、何をやっているのか分からなくなってしまいそうな感じです。全体のセリフのテンポ感の中で、セリフの隅々まできちんと演じきるように、緊張感を保たなければいけません。素の自分が、ただセリフを読んでいる芝居は論外。「お芝居のセリフというのはこういうものだ」という自分の固定観念で作った、いわゆる「芝居がかった」セリフもダメ。パリのボヘミアンが喋っているセリフ、として、リアリティのある作り方をするには、相当研究が必要です。もうちょっと早く台本が欲しかったなぁ。井上ひさしみたいに、上演延期したり、取りやめしたりできりゃいいんだけどなぁ。

昨夜、台本の製本作業をやっている女房と話をしていました。女房が、「今回の台本はなんか今までの公演とは勝手が違う」とぼやいています。なにが?と聞いてみると、「キミの台本みたいに、台本が読み物になっていないから」とのこと。

私も、ガレリア座で何度か台本を書いたことがあるのですが、私の台本というのは、「読み物として読める台本」なんだそうです。要するに、舞台上演ということの前に、セリフや物語がまず出来上がっていて、それを舞台という表現形態の中に納めようとするのが、私の台本の書き方なんですね。頭の中で舞台を上演している、というよりも、頭の中には物語やセリフが先にある。まず、小説を書くような感じで物語が構築されていて、それを舞台の中に当てはめていく。女房は、「橋田壽賀子ドラマみたいな感じなんだ」と言います。ドラマとしての物語性が強いので、登場人物はセリフで状況を説明しようとする。ひとつひとつのセリフが、物語を進めていくための道具になっている。

別に、私の台本だから、ということではなく、橋田ドラマ的なこういう台本というのは、結構多いと思います。実際、前回のガレリア座の公演「乞食学生」でも、状況をきっちり説明するセリフというのが多かった。それに比べて、今回の「モンマルトル」の台本は、一つのシチュエーションの中で、複数の等価のキャラクターたちが、当意即妙のセリフをやりとりしていく、いわゆる「シチュエーション・コメディ」としての性格が強い感じがします。物語を語ることよりもむしろ、そのシチュエーションの中で右往左往したり、悩んだり、バカなことをやったりする登場人物たちのやりとりを楽しんでしまおう、という台本。橋田ドラマじゃなくて、三谷幸喜ドラマの色彩が強い。

こういう台本では、その場面における物語をどう進めていくか、というポイントよりもむしろ、その場面におけるキャラクターの個性がどれだけ「立っている」か、ということが問題になります。さらに言えば、そのシチュエーションをきちんとイメージし、その中で自分の演じる登場人物が、どのように反応するだろうか、というキャラクターのイメージをきちんと作っておかないと、とにかく全体がぼけてしまう。言ってみればストーリなんかどうでもよくって、その場面において登場人物たちがどう振舞うのか、という筋がきちんと通っていることの方が、よっぽど重要なんです。

読み物として成立している台本、という女房の言い方がちょっと面白かったのですが、どちらの台本が優れている、とか、台本の書き方としてどちらが正しい、ということではない気がします。アプローチの仕方が違う。その違いはともかくとして、この濃密な「シチュエーション・コメディ」の中で、どれだけ自分の演じる役柄の個性を表現することができるか、じっくり考えてみたいと思います。時間がないなぁ。あっぷあっぷだなぁ。(T0T)