何を語るか、どう語るか。

今、平田オリザさんの「演劇入門」という本を読んでいます。戯曲を書くための方法論をまとめた本なのですが、非常に面白い。その中で、「語りたいテーマを設定する」ということを否定する、というくだりがあって、これが非常に面白かった。
要約すれば、現代のように価値観が多様化した状況下では、何かの主義主張を設定すること自体の意味がない、ということ。さらに、主義主張を伝えたければ、演劇、という手段よりももっと有効な手段が一杯ある、現代の演劇の存在意義は、そういうところにはないはずだ、という主張です。
これは本当にその通りだなぁ、と思います。最終的に平田さんは、「演劇の目的は、作家の脳の中で捉えられている世界を観客にそのまま提示することによって、より本質的な「世界とは」「人間とは」という問題に切り込んでいくこと」といった主張をされていきます。面白いなぁ。
ところで、最近、日本映画専門チャンネルで集中放送されている「TRICK」のシリーズを見ています。このシリーズ、阿部寛さんと仲間由紀恵さんの出世作になりましたけど、今見てもほんとに面白い。でも、話としては、結構強引だったり、無茶な話だったりすることが多いんですよね。そんなトリック、無理があるよなぁ、と思うことも多いし・・・
それでも面白いなぁ、と思ってしまうのって、やっぱり、「演出術」ということに尽きる気がするんです。堤幸彦監督の演出術、つまり、「どう語るか」ということ。
このあたりで、冒頭の話に戻ってくるんですが、現在のドラマ(演劇・TV・映画全て含む)において、「何を語るか」というのは結構どうでもいいことになってきているんじゃないだろうか・・・という気がするんですね。むしろ、「どう語るか」ということの方が大事になってきている。そしてその中で、かえって人間の本質のようなものが見えてくるような。
例えば、以前にもこの日記に書いた「白い巨塔」ですけど、昔このドラマが放映された時には、医学部の権力闘争や、がんの告知の問題など、語るべき「テーマ」がかなり明確でした。でも、近作においては、そういった「テーマ」はかなりぼやけてしまっていた。そこでむしろクローズアップされてきたのは、「テーマ」というよりも、それぞれの役者さんの演技であったり、脚本や演出、といった、「どう語るのか」という部分だった気がします。
そしてかえってそれが、財前と里見、という2人の対比の中で、権力闘争やがん告知といった問題を超えた、「医者というのはどうあるべきなのか」「医者と患者の関係はどうあるべきなのか」という、さらに深いところに切り込んでいくことができた要因だった気がします。今、大上段に「がん告知はかくあるべき」なんて主張することはできないし、「医者というのはこうあるべき」と主張することも難しい。むしろ、テーマを絞り込むのではなく、キャラクターが、与えられた情況の中で精一杯生きている姿を、そのままいかに鮮やかに切り取るか、「どう語るか」というところに注力したおかげで、より普遍的な人間の姿を描写することができたんじゃないかな。
さらに言うと・・・実は、私が関わっている、音楽の世界、というのは、まさに、「何を語るか」ではなく、「どう語るか」という部分で勝負している世界のような気がするんです。何度となく上演されつづけている古典的なオペラを上演するにあたって、その音楽に「どう取り組むか」という姿勢。そこに、歌手や演出家の個別の工夫がほどこされていく。歌舞伎の工夫にも似たアプローチの中で、その音楽が伝えてくるテーマよりも一層普遍的なものがあぶりだされてこないか?
ちょっとまだ、頭の中での整理が仕切れていない議論なのですが、「何を語るか」から、「どう語るか」へ、という流れについては、もっと深く論じることが出来そうな気がしています。