ブーイングを出すにも覚悟がいると思うんだけど。

昨日書いた「ブログ」の話、少し書き足りない気がしているので、今日もその続きです。

昨日、ブログの表現の中で、「こんなことに気付いているオレって、すごいと思わない?」というのが、表現したい主眼だったりするケースについて書きました。でも、それって、別にそんなに悪いことじゃない。多分、文化活動全般について、「ボクってすごいでしょ?」という自己顕示欲というのはある程度は不可避なもの。でも、本当に一流の人たち、というのは、その自分の「気付き」を、「だからボクはすごいでしょ?」じゃなくて、「だからxxはすごいでしょ?」という、「気付きの対象」に対する愛情や尊敬に昇華させていく。そこに、一流と二流以下を分ける分水嶺のようなものがある気がしているんです。

例えば、あるオペラの舞台を見たとします。非常に難解な演出だったけど、その演出意図はこうだと思う、という感想文を書いたとします。そういう場合に、「この演出意図を汲み取ったオレって、すごいでしょ?」という自己顕示欲プンプンの文章になるか、それとも、「だからオペラは面白いよねぇ」「だから舞台は面白いよねぇ」といった文章になるか、というのは、結構紙一重だったりする。加えて面白いのは、そういう「すごいオレ」を主張する文章の多くが、パフォーマンスを「けなす」ものだったり、「不満」の表明だったりすることが多い気がするんです。

これって、オペラを見に行った時に、どう考えたって素晴らしいパフォーマンスだと思う舞台に、ブーを浴びせる人がいる時にも思うこと。そりゃ確かに、そのブーイングに激しく同意したくなる舞台だってあるよ。昔のMETの来日公演で、ドミンゴが振ったカルメン見た時には、私もブーを浴びせたくなったさ。でもねぇ、先日のフェニーチェの中島ナディールへのブーとかさ。大野モネ劇場の「ドン・ジョヴァンニ」だって、確かに個人的にはあんまり好きな演出じゃなかったけど、大野さんにブーを浴びせるのは筋違いだろうと思ったぞ。

ブーイングを出すのは自由だし、信念を持ってブーイングを出しているんだろうと思うから、その人にきちんと「なんでブーを出したの?」と確認しないでとやかく言うのは、ちょっと問題ある気もしますけどね。なんとなく、「ブーを出すことが出来るオレって、すごいでしょ?」「この程度のパフォーマンスに満足できないオレって、ホントにすごい耳を持ってると思わない?」という自己顕示欲、というか、「だからオレはお前ら一般客とはちょっと違うのさ」という、妙な選民意識を感じることがあるんだよねー。

全然話が変わるんですが、先日、娘の幼稚園で運動会がありました。運動会では例年、年長組の男の子が太鼓を叩いて、女の子達が群舞を踊る、という出し物があります。この太鼓が例年、無茶苦茶なんだ。5歳ですからね、リズムもヘタクレもなくて、ただドンドコドンドコ叩いている。それがまた微笑ましかったりする。でも、今年の年長組の男の子は、すごく上手だったんです。多少の乱れはあったけど、ほとんど問題なく、リズムがきちんとそろっている。最初の数小節を聞いただけで、「おお、今年の子はすごく上手だ!」と思わず夫婦で叫んでしまいました。

ところが、その脇で、「ヘタクソねぇ」とぶつぶつ言っている人たちがいるんですよ。「なんであんなにそろわないのかなぁ」と。太鼓だけじゃなく、とにかくどの出し物にも文句をつけてる。「去年の方が上手だったよねぇ」「今年はつまらないねぇ」「先生の指導が悪いのかなぁ」「なんでこんなに出来が悪いのかしらねぇ」

・・・どう見たって全然そんなことはない。子ども達は例年通り、あるいはそれ以上に頑張っているし、先生たちが一生懸命考えた創意溢れる出し物は、それぞれに面白い。でも、ずっとブツブツ文句を言っている。でもさ。そういう人って、結構身近にいませんか?とにかく文句を言っている。文句を言うことが、カッコイイと思っている。社会党みたいですね。万年野党。

文句を言うことで、「この程度のものに私は満足できないんです。私はもっと素晴らしいものを求めているんです。そういう私って、すごいでしょ?この程度のものに満足しているあなたとは違うんですよ」というオーラがびんびん出ている。ちょっと待って、と言いたくなる。少なくとも、多少なり趣味で音楽やっている我々夫婦が聞いて、今年の年長組の太鼓は明らかに例年に比べても上手だった。そうやって文句を言っている人たちは、音楽とは全然無縁の人たちだったりする。つまり、「ヘタクソだ」と文句をいうことで、「私には太鼓の上手下手を聞き分ける耳がないんです」ということを暴露しているに過ぎないんです。

自分に自信がない人が、自分には鑑賞力がある、と主張したくなった時に、よく陥る罠なのかもしれませんね。よく分からないから、とりあえず「けなす」。「こんなの大したことないよ」とアラ捜しをする。「アラ」が見つかったら、「ほーら、このアラを見つけた私ってすごいでしょ」、と胸を張る。でもねぇ、それが本当にその芸術の価値を損なう「アラ」か、ただの重箱の隅かってのは、正しい目や耳を持った人からすれば明確に区別ができることなんだよ。ものをけなす時にも、確実にその人の鑑賞力が見極められている。誉めるにせよけなすにせよ、もっと自分自身の「目」や「耳」に対して謙虚にならねば。