画面構成ということ

本番直後の連休、ということで、家の模様替えをしたり、ガレリア座の写真注文を取りまとめたり、と、残務整理をぼちぼちやっています。普段の週末が練習だなんだでばたばたしている分、こういう連休はすごく貴重です。何もないお休みってのはいいなぁ。

で、最近購入したHDDレコーダを駆使して、今Animaxでやっている「ベルサイユのばら」連続放送というのを録画しているところ。録画したものを後からつまみ食い的に見ているのですが、この番組、本当に残酷な番組だなぁ、と思いながら見ています。

というのも、この番組、全40話の前半と後半で、演出総監督が交代したんですね。その前半と後半で、画面構成の鋭さ・演出の質が全く異なってしまっている。前半を演出された方は、「巨人の星」や「ど根性ガエル」などを演出されたベテランの方なのですが、どの画面を見ても、とにかく「ぬるい」。画面の構成、背景と登場人物の配置、画面の切り替えのタイミング、どれをとっても、きわめて凡庸で、見ていてイライラするほどなんですが、20話あたり、ポリニャック夫人の娘のシャルロットが塔から身を投げる回から、演出家が交代したんです。そう、あの出崎統さんに。「あしたのジョー」「エースをねらえ」「ガンバの冒険」「コブラ」、どれをとっても、アニメ史に残る名作ばかりを手がけてきた達人です。これはあまりにヒサン。前半を演出された方だって、それなりの方なんですけど、とにかく、画面構成の力が全然違う。加えて、そのシャープな画面をたたみかけ、あるいはじっくりと見せる間の絶妙さ。おかげで、後半のドラマの緊張感のすごいこと。「あしたのジョー2」の終盤の壮絶さを思わせる、クライマックスへの緊迫感。とにかくすごい。

こうやって見比べてしまうと、やっぱり、TVドラマやTVアニメ、というのは、絵コンテ、つまり画面構成、というのが本当に命なんだなぁ、というのがすごくよくわかります。ベルサイユのばら、という素材は、原作の素晴らしさと、それをよく理解した脚本家の皆さんの力もあって、ホン自体は非常によくできていると思うのですが、それを活かすも殺すも、演出、とりわけ画面構成の力次第なんですね。

宮崎駿さんが、高畑勲さんと組んで、「太陽の王子ホルスの大冒険」以降、ずっと絵コンテ描きとして、「画面構成」というクレジットで仕事をされていましたけど、その結果、宮崎さんの映画は、全て絵コンテの時点で完成されている。出崎さんの演出を見ると、これも絵コンテの力が非常に大きいなぁ、と感じることがしばしばです。TV=「ブラウン管」という枠の中に、何をどのように配置し、その画面を、どんなタイミングで変化させていくか。舞台と決定的に違うのは、視点の変化も、時間の変化も自在だ、ということ。上から見下ろすこともできれば、下から見上げることもできる。回り込むことだってできる。スローモーションも可能だし、出崎さんお得意の、ストップモーション=止め絵、という手法だって取れます。これをどう組み立てていくか、というのが、TV表現のすごく重要な要素なんだなぁ、ということを、教科書のように教えてくれる、それが私にとっての、「ベルサイユのばら」です。

これが舞台でできると思ったら大間違いなんだよねぇ。脚本書いたり、演出したりするときに、「舞台にはクローズアップはないからね」と何度か言われたことがありました。そうなんですよねぇ。ここで、登場人物の驚愕した顔がアップになる、なんてことが、舞台ではできないから。その人が驚愕している、というのが誰にでもわかるように表現するには、別の方法を取らないといけない。舞台上の演出文法、手法、というのはまた別にあるし、きっと消化不良を起こしそうなほど山盛りの理論があるんでしょう。それを語るほど勉強していない私としては、とりあえず、歌役者として、舞台上でいかに自分の所作を美しく、そして強く印象付けるか、ということを、経験的に学んでいくしかないんですけどね。

しかし、アニメの「ベルサイユのばら」は、原作に比べると、オスカルとアンドレの関係に焦点が置かれていて、アントワネットの影が薄いなぁ。原作はもっと、アントワネットが中心に置かれていましたけどね。原作では、「ベルサイユのばら」=アントワネット、だったけど、アニメでは、どうみても、「ベルサイユのばら」=オスカル、という感じがする、というのは、これはうちの女房のセリフです。そんなわけで、アントワネット好きの女房は、アニメの評価が低いんですが・・・しかし、アントワネットに自己投影している女房を持っている私の立場というのは・・・ううむ。