情報量と分かりやすさ

本番まであと1週間になりました。さすがにちょっと緊張し始めています。まぁ、一人芝居のいいところは、セリフが多少ぶっ飛んでしまっても、自分一人でフォローできるところですがね。これが相手がいると、どうフォローするか、相手の呼吸を計らないといけなかったりするけど。とにかくリラックス、リラックス。

さて、今日のお題は、「分かりやすさ」ということ。

一応、ビジネスマンなので、ビジネス文書とか、資料を作ることが多いのですが、そこで特に求められるのは、「いかに必要な情報を要領よく伝えるか」です。そこで大事なことは、情報を盛り込むことではなくて、逆に、情報を削ること、だったりするんですね。
当事者は、「どの情報も重要なんだ」と、ひたすら資料に情報を盛り込もうとする傾向があります。そうすると、情報量が多すぎて、結局何が言いたいのか、というポイントがぼやけてしまう。何が大切なのか、何を伝えたいのか、というポイントを絞り込むためには、情報をどんどん削っていく、捨てていく作業がすごく重要だったりします。

でもこれって、実は、パフォーマンスアートの世界でも一緒なんですよね。まず、脚本の段階で、どれだけすっきりした、分かりやすい脚本にするか、というのは、非常に重要なファクターになる。いかにシンプルにするか。登場人物の数を減らし、セリフの量を減らし、シークエンスを減らし・・・シンプルにすればするほど、逆に、「これは絶対に残さないとダメ」という大事なセリフしか残らなくなる。逆に、「このセリフしか残せないなら、もっといいセリフにしないと」という形で、セリフの純度が上がる、というか、インパクトのあるセリフ、観客の心を打つセリフが生まれてくる。そういう循環がうまく回ると、脚本はどんどんよくなってくる。

演技の世界でもそうです。役者は必ず、色んなコトをやりたくなります。こんな風にしたら面白い、こんなこともやってみたらどうだろう、そういう役者の様々な「色気」の中で、使えるものは実はほんのわずかだったりします。邪魔になるような「色気」を殺ぎ落とす・・・というのも、純度の高いパフォーマンスを作るために必ず必要な作業です。

・・・と、こんなことを考えたのは、昨夜、「渡る世間は鬼ばかり」をちらっと見たせい。このドラマ、ものすごくセリフが多い、ということで有名ですけど、そのセリフの大部分が、状況説明なんですね。なぜこの人物がこういう状況に陥っているのか、という、過去の経緯の説明部分が、異様に長い。そのおかげで、このドラマ、いつどこから見ても、人物関係が理解でき、今の状況がなぜ発生したのか、という背景が全て理解できる。これはすごい。

昨夜見ていて、もう一つすごい、と思ったのは、そうやってひたすら状況説明をするセリフが多いために、一つのドラマの中で起こる事件、というのが非常に限定されるんですね。色んなコトを語っているために、逆に、今起こっていることは非常にシンプルにしか表現されない。過剰と思われるような説明セリフのために、かえって、役者さんの演技や、発生している事件が、シンプルで輪郭のくっきりしたものになっている。こんな逆説的なドラマって、中々ない。すげぇ。

昨夜見ていて驚愕したんですが、幸楽のお昼休みのシーンで、泉ピン子角野卓造は、テーブルに座ったまま微動だにしません。赤木春恵も動きません。ひたすらセリフを言っているだけ。他の人物も、多少の出入りや動きはありますが、ほとんど大きな動きがないんです。固定された人物の間で、セリフだけがぽんぽん行き交っている。ここには、ほとんど役者の「色気」が差し挟まれる隙がありません。ある意味、小津安二郎の映画で、原節子と、笠智衆が、座敷に座ったまま微動だにせず、「お父さん」「なんだい」と言う、その二言だけで、二人の関係が簡潔に語られてしまう、それと同じことが、幸楽のテーブルに座る人々の絶え間ないお喋りの中で実現されているんです。

しかも、そのセリフのほとんどが、過去の経緯についての説明セリフで、現在の状況についてのセリフは非常に限定されている。そうなってくると、「説明のためのセリフ」と、「現在の状況を語るセリフ」の二種類以外のセリフはほとんどない。セリフが無茶苦茶多いにも関わらず、「説明のために最小限のセリフ」と、「現在の状況を語るために最小限のセリフ」だけ。つまり、本当に研ぎ澄まされた、極めてシンプルなセリフだけが行き交っている。無駄なセリフは一切ないんです。これだけ情報量の多いドラマを、これだけシンプルなセリフで語り尽くすこの技。恐るべし、橋田壽賀子