「矢島正明 声の仕事」〜教養・謙虚・そして、色気〜

東京シティオペラ公演の関係でお近づきになる機会を得て、そのお人柄にすっかり魅了されてしまった、声優界の生神さま、矢島正明先生。初めて「宇宙大作戦」のカーク船長の声を聞いた時からファンだった先生が、お食事をご一緒して下さった時、照れくさそうに、「実はね、今度、本を出すんです」とおっしゃっていて、それがこの本、「矢島正明 声の仕事」。

忙しさにかまけて中々手に取ることができず、先日やっと読み始め、一気に読了。アテレコという仕事の草創期、「生放送による外国TV番組の吹き替え」という、何もかもが初めてずくしの手探りの現場。翻訳台本はほとんど直訳で、それをセリフとして実際の映像と合わせていく作業は、ほぼ全て、現場の演出家と役者に委ねられていた、という、現在では信じられない環境の中で、逆にそれが、現場の凄まじい緊張感を生み出し、さらに、演者の個性や独特の演出を引き出していく。高度成長期の日本の勢いをそのまま反映したかのような、熱気あふれるTV創生期の、わくわく感に充ちたエピソードの数々。

若山弦蔵さん、野沢那智さん、日下武史さん、小原乃梨子さんなど、声優という職業に少しでも憧れを持った人にとってはまさに神様のような方々の等身大の姿が活写されていて、昭和40年代の放送業界の群像ドキュメンタリーとしても読みごたえ十分。六畳にも満たない狭いブースで、十人以上の演者が、たった一本だけのマイクを奪い合いながら、一回きりの生放送30分の吹き替えを毎週やりきる、という過酷な現場。その現場の興奮は、そのまま、現在のテレビ現場へのアンチテーゼにもなっている。いくらでも再録が可能、声の調整も可能、実際の映像じゃなくて絵コンテや止め絵で合わせる、役者のスケジュールに合わせて、そこにいる人だけで録音してあとで音を重ねる、と、まさに自由自在な現在の現場が、創造の現場として果たして質の高いものを生み出していると言えるのか。あの矢島先生のナレーションのように、声高ではない、誠実な語り口で訥々と投げかけられる、厳しく真摯な問いかけ。

そういうドキュメンタリー、あるいは業界もの、としても読めるのだけど、矢島先生のお人柄とそれを支える深い教養を色濃く表しているのは、むしろ、著書の後半で語られる疎開先での生活を振り返った随筆だったり、ヨーロッパを中心とする紀行文だったりする。特に紀行文には、先生ご自身お好きだという辻邦生の影響も感じられる、読みごたえのある重厚な文章になっています。

共感ポイントはいくつもあるのだけど、我が身を振り返って思わず背筋を伸ばして読んだのは、自分の表現に対する謙虚さと、80歳を超えてなお、一期一会の本番舞台の熱気を求め続ける、表現に対する衰えない色気。表現に対する謙虚さ、という点では、本の中に非常に印象的な文章が出てきます。引用すると・・・

                                                    • -

 吹き替えの開拓期に、昔気質の役者がこう言った。
「声も言葉も含めてひとつの人格なんだ。それを吹き替えちまうなんて、冒涜だ。オレは絶対にアテレコはやらんよ」
 ぼくらの出発点には、他人の創造を汚すという後ろめたさがつきまとった。その罪の意識が対象への畏怖の感覚を育て、作品の前に謙虚になる心を培ってくれた。

                                                    • -

洋画や外国TVドラマに対するアテレコ、という作業自体が、既に完成された本物の役者の表現を「汚している」という罪悪感。本物の役者の表現に対するリスペクトが、演技の出発点であるべきだ、という謙虚さ。

でもそれは、演技を縛る制約であると同時に、その制約の中でどれだけ演者としての個性を見せるか、という挑戦でもある。一癖も二癖もある黎明期の声優さんたちが、制約の中でも、オリジナルにはない声のトーンやアドリブを巡って、ああでもないこうでもないと試行錯誤していくプロセスと努力には圧倒されるのだけど、でもそのベースには、「罪悪感と謙虚さ」があるべきだ、という矢島先生自身の立ち位置の、なんと誠実なことったら。

我が身に振り返ってみれば、クラシック音楽という表現の場では、「楽譜」という制約が表現上最大にリスペクトされねばならない、という、当たり前なんだけど時におろそかにされがちな原則を、今更のように思い出させていただきました。音程、音の長さ、音量、時にはもっと細かい演奏指示までが記入された楽譜は、画面上で本物の役者さんが既に演じている演技と声、というアテレコの制約と共通する部分がないでもない。オリジナルに最大のリスペクトを払うべき、という矢島先生の誠実さと同等以上の誠実さで、楽譜に対して向き合うことが、自分にできているだろうか。

もう一つ、表現の現場に対する色気、というのは、この本の中ではそれほどはっきり出てきません。でも、矢島先生が、東京シティオペラのナレーションの現場に愛着と情熱を持たれている、というのは、やっぱり、舞台表現という一期一会の場で表現することへの愛着と色気なんじゃないかなぁ、という気がする。そういう矢島先生の愛着の原点が、昭和40年代、狭いスタジオの息詰まる緊張感の中で毎週過ごした30分間の「生放送の吹き替え」体験だったんじゃないかなぁ、なんて勝手に想像したりして。

TVの現場が面白くなくなった、と言われて久しくて、やはりTVが生み出した巨人の一人であるジャニー喜多川さんが、最近はTVよりも、ジャニーズ役者さんたちが出演する舞台の演出に力を入れている、という話なんかを聞くと、失敗が許されない、あるいは失敗やトラブルも瞬時にパワーに変えていかねばならない、厳しさと緊張感に満ちた「ライブ」こそが、表現人をとらえて離さない究極の表現現場なんじゃないかな、という気がします。矢島先生、これからもお元気で、ライブの現場でのご活躍を続けつつ、後進の我々に時々喝を入れてやってください。