間は魔に通じる

季節の変わり目になると必ず調子が悪くなるのですが、今年もまたぞろ、持病の十二指腸潰瘍が再発・・・今朝もお腹が痛くて、夜明け頃に目がさめてしまった。金曜日は胃カメラ検査です。あうう。

今日は、またまた、ウチの女房ともどもハマってしまった「白い巨塔」のお話。昨夜からCSで、田宮二郎さんの前シリーズが放送開始。第一話を夫婦そろって見てしまいました。これから毎日2話ずつ放送ですから、購入したばかりのHDDレコーダも大活躍です。

で、田宮二郎さんの演技を見ていて思ったんですが・・・田宮さんのお芝居って、妙な「ずれ」があるんですね。周りの役者さんの持っているセリフ回し、間の取り方と、微妙にずれる感じ。それがすごく面白い。

他の役者さんの、ある意味訓練されたセリフ回し、間の取り方、発声法と比べると、計算されていない「ずれ」がある。大根役者だ、と言われることもあるようですけど、そういう感じではない。むしろ自然に、財前五郎というキャラクターの、傲慢でありながらどこか自信がなく、気の弱い「マクベス」的なキャラクターが表現されている。また、見方によっては、ただぼそぼそ喋っているだけじゃないか、という方もいらっしゃるとは思うんですが、少なくともTVというメディアを通す限り、セリフが聞き取れない、ということもない。最近のTVドラマでよく出てくる、音響技術に頼った、つぶやき芝居、ささやき芝居に比べれば、はるかに明瞭な発声ですし、ちゃんと息が流れているように聞こえます。

特に、里見先生役の山本学さんと比べると、そのお芝居の異質さ、というのが際立つ感じがしました。山本さんのお芝居というのは、非常に定型化された、整ったお芝居です。ある意味、セリフの間も予想できるし、違和感もないし、受け取りやすい。とても分かりやすいお芝居です。
でも、田宮さんのセリフを聞いていると、ここで間を取るだろうな、というところで、そのままずるずるっとセリフが続いていったり、ここできちんと声を張るだろうな、と思うところで、すっとトーンが下がったり、ある意味、こちらの予想を裏切るお芝居をされるんですね。これが実に面白い。

ここから先は、勝手な想像なんですが、恐らく、このドラマが放送された25年前では、まだドラマの録音技術が高くなくて、舞台のセリフ発声法や間の取り方をそのまま持ち込んだお芝居が主流だったんじゃないかな、と思うんです。また、いわゆる、お茶の間ドラマの世界では、そういう定型的なセリフ回しが、視聴者に分かりやすくセリフを伝えるノウハウとして定着していたのじゃないかな。
田宮さんのお芝居、というのは、そういう常識的な枠を越えた、当時のお茶の間ドラマの役者さんとしては、非常に異質な存在だったんじゃないかな、と想像します。また、そういうセリフ回しであっても、十分にセリフを飛ばすことができるような、目に見えない工夫や努力が色々あったんじゃないのかなぁ。
今では、TVドラマの撮影技術・録音技術も格段に進歩してますから、声にならないささやき声でのお芝居でも、明瞭にセリフが聞き取れますけど、その分、そういう、役者さん側の、目に見えない努力や工夫、というものが入り込む余地が少なくなっているのかも。

昔、TVで、松本幸四郎さんが、「『間』は『魔』に通じる、といって、セリフにせよ動作にせよ、お芝居で一番大事なのは『間』なんですよ」という話をされていました。様々な機械的な処理によって、この「間」が肉体から離れていく時代ですから、生の「間」で勝負していた昔のドラマって、かえって新鮮だったりしますね。