二期会公演「天国と地獄」〜人のことはいくらでも言えるんだけどさ〜

昨日、行ってまいりました日生劇場二期会の「天国と地獄」です。
 
台詞:佐藤 信
指揮:阪 哲朗
演出・美術:佐藤 信
衣装:櫻井 利彦
照明:黒尾 芳昭
映像:吉本 直聞
振付:謝 珠栄
美術補:工藤 明夫
演出助手:高岸 未朝
合唱指揮:松井 和彦
舞台監督:大仁田 雅彦
公演監督:中村 健
ジュピター:田辺 とおる
オルフェウス:大野 徹也
ユーリディース:腰越 満美
地獄の大王プルート:青柳 素晴
恋の神キューピット:里中 トヨコ
酒の神バッカス:境 信博
ジュピターの妻ジュノー:佐々木 弐奈
狩猟の女神ダイアナ:新垣 有希子
愛と美の女神ヴィーナス:翠 千賀
軍神マルス:北川 辰彦
プルートの召使ハンス・スティックス:大野 光彦
神々の使いマーキュリー:中原 雅彦
智の女神ミネルヴァ:松井 美路子
世論:押見 朋子
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京交響楽団(ソロ・コンサートマスター 大谷康子)

という布陣でした。
 
・・・「天国と地獄」という演目は、ガレリア座でも上演したことがあり、私はジュピターを演じました。また、大好きなナタリー・デセイが超絶的なエウリディーチェを演じたDVDが、我が家の愛聴盤になっていたりします。さらに、エウリディーチェとジュピターの「ハエの二重唱」は、女房と私のレパートリーの一つだったりする。とてもとても思いいれがあり、序曲から幕切れにいたるまで、私の体の中に音楽や場面が全部染み付いている演目だったりします。そういう演目だけに、観客としての点数は無茶苦茶に辛くなる。その点を差し引いて、以下の感想を読んでいただければと思います。

・・・なんてことを書くと、「相当けなす気だな」と身構えられるかもしれないけど、面白いなぁ、すごいなぁ、と思うところは沢山ありました。中でも、ジュピターを演じられた田辺とおるさん。歌と演技が全く無理なく一体になった品格のある表現。以前の「ルクセンブルグ伯爵」の時にも、別格の存在感を見せてくださいましたけど、今回も期待に違わぬ見事なジュピターでした。全ての表現に余裕がある。「あ、これがこの人の精一杯なんだなぁ」という感じが一切しない。

同じことは、ダイアナ役の新垣有希子さんにも言えて、このお二人の歌と演技にはとても引き込まれました。新垣さんはルックスもとても可愛くて、ただ立って歌っているだけの場面でも、きちんと立ち姿で演技をしている感じ。決して素にならない。「一生懸命やってます」という感じがしなくて、役をちゃんと楽しんでいる。

阪さんの指揮も素晴らしかったと思います。何より切れ味がいい。音の輪郭がくっきりしていて、でもスピード感と洒落っ気を失わない。オッフェンバックの音楽の魅力が十二分に引き出された演奏だったと思います。他にも、腰越満美さんの見事な日本語歌唱や、大野徹也さんのさすがのとぼけた演技と歌の見事さ、合唱団の声の圧力の素晴らしさ、「おお」と思うシーンは一杯ありました。

でもね・・・(さて、そろそろ始まるぞ。毒吐きが。)

「天国と地獄」という演目は、主役がいない演目です。誰か一人が牽引役になって、その一人の破格のパフォーマンスが全体のパフォーマンスを左右する、ということができない演目。田辺さんがいかに素晴らしいジュピターを見せても、大野さんがいくら笑わせてくれても、それで全体のパフォーマンスがどうにかなるものじゃない。

しかも、結構重要な役回りが、普通だったら端役と言われる役に割り当てられていたりする。ビーナスにもミネルヴァにもジュノーにもマーキュリーにも、それぞれにいい歌があり、見せ場がある。ハンス・スティックスなんか、ストーリにはほとんど関係ないのに、無茶苦茶カッコイイ歌があったり、楽しい芝居があてがわれていたりする。簡単に言っちゃうと、やたらと「無駄」の多い演目なんです。「無駄」にかっこよかったり、「無駄」に美しかったりする。その「無駄」の部分をいかにきちんと演じ、歌えるか、と言うところが、この演目の勝負どころだったりする。どれだけエウリディーチェの歌が素晴らしくても、その「無駄」の部分がつまらないと、全体的には全然面白くない舞台になってしまう。

その「無駄」をどれだけ楽しませることができるか、といえば、演じる側、歌う側にどれだけ「余裕」があるか、という所が勝負なんです。「あ、この人はこれで精一杯なんだ」と思わせてしまったらそこで負け。「あ、この人はこの歌を歌うので精一杯なんだな」「あ、この人の演技はこれが精一杯なんだな」「あ、この人のセリフ回しはこれが精一杯なんだな」「あ、この人のパントマイムの表現はこれで精一杯なんだな」・・・そう思うたびにがっかりする、そのがっかり感が舞台のクオリティをどんどん殺いでいく。

ただ棒立ちで必死になって歌っている歌手。セリフ回しが高校生の学芸会みたいに妙に真面目な歌手。あるいは力みだけが伝わって肝心の日本語が不明瞭なセリフ回しの歌手。ノリノリの合唱曲を棒立ちになって一生懸命歌う合唱団。大野さんもセリフ回しや歌は素晴らしいのだけど、ヴァイオリンの演奏のパントマイムが全然適当でシラケちゃったのが残念。全体に言えば、政府の規制という「型」にはめられた共産主義国家で作られたコメディ映画を見ているような。あるいは、想像力の欠如という「型」にはまったガリ勉の秀才たちが集まった学校の学芸会で、吉本新喜劇のような喜劇を一生懸命演じているのを見ているような。真面目な顔して一生懸命コミックソングを歌って、「ね、面白いでしょう、どう、笑えるでしょう?」と言われても、全然笑えない。

それって、要するに、演じる側に余裕がないからなんですね。どこかで、「僕は歌は得意なんだけど、演技はイマイチ」とか、「私にはこの歌はとても難しいから、このフォームじゃないと歌えない」とか、そういう自分の限界=「型」をはめてしまっていて、その中でしかパフォーマンスができない。いくら佐藤信さんの演出が、色んな遊び心や色んな仕掛けを仕込んでいたとしても、役者側がそれをさらに壊していくようなパワーがないと、楽しい舞台にならない。別にね、歌もお芝居も多少下手でも、多少崩れていてもいいんですよ。「上手に歌わなきゃ」「上手にお芝居しなきゃ」「上手にダンスしなきゃ」と一生懸命やろうとする、その一生懸命さが見えるところがつまらないんだ。もちろん、そこで余裕を持って、歌やお芝居やダンスを楽しんじゃえ、となるには、ある程度、歌やお芝居やダンスが出来る技術が身についていないといけないので、そこが難しいところなんだけど・・・。結局、そういう役者の持っている能力の限界のようなものを思いっきり暴いてしまうのが、オッフェンバックの恐ろしさ、ということなんですね。

歌えるのは当たり前。芝居も上手で当たり前。ダンスも上手で当たり前。その当たり前のところに、さらにどれだけの無駄な部分やアイデアを付け加えることができるか。どれだけ、自分の「型」を破る表現ができるか。ガレリア座の「天国と地獄」は、型も何も、技術的なところは全然なってない連中が、「どうせ歌も芝居もダンスも素人なんだから、楽しんじゃえ!」という開き直りだけで作り上げてしまった舞台でしたから、決して素晴らしい舞台だったとは思いません。それでも、「型」の中で立ちすくみながら一生懸命はしゃごうと頑張っている役者たちを見せられるよりは、多少は楽しめる舞台になっていたんじゃないかな、と思います。

逆に、今度、その恐るべきオッフェンバックの「美しきエレーヌ」を自分たちがやるのか、と思うと、改めて背筋が寒くなる。「楽しい!」「面白い!」だけでは限界がある演目。当たり前のことをきちんとやった上で、さらにその上を目指さないといけない演目。与えられたハードルはものすごく高くて厳しい。どこまでできるか・・・自分たちがチャレンジしようとする課題の大きさを改めて認識させられた舞台でした。これだけ人の舞台に言いたいこと言っておいて、「じゃあお前のカルカスはどうだっていうんだよ!」と言われないように頑張らないと・・・(ここまで書いたらゼッタイ言われるぞ・・・)