レクイエムのこと

今日は空いた時間に、ヴェルディのレクイエムを練習しました。お世話になっている大田区民オペラ合唱団の次の演奏会の準備。
前の演奏会では、同じヴェルレクの1番と2番だけの演奏会だったけど、今回は全曲をオケ伴で、ということなので、5番のSanctusフーガをさらいました。たぶん、10年以上前に一度歌ったきり・・・案の定、全然覚えていなくて焦りまくり。
手元にあったカラヤンのヴェルレクは、ffとppのダイナミクスの差がありすぎて肝心のベースの音がよく聴こえない。楽譜が読めない私としては、音源からの耳覚えが出来ないとなると、弾けないピアノで必死こいて一音一音たどっていくしかないんだよね・・・(TT)
とは言え、あんまり練習に顔出せないし、練習で音取りする時間なんてないから、家で事前にさらっていくしかない・・・大丈夫かなぁ。
足を引っ張らないように頑張らなくては・・・

というわけで、今日はレクイエムの話。

レクイエムには名曲が多いようで、合唱経験のそんなに長いわけでもない私でも、数えてみると、

ブラームスのドイツレクイエム
モーツァルトのレクイエム
ヴェルディのレクイエム
・デュルフレのレクイエム
・ラッターのレクイエム

と、5曲も歌ったことがありました。これ以外に、フォーレのレクイエムはやっぱり愛聴盤で、ウェッバーのレクイエムも結構好きです。

ドイツレクイエムは構成のすごさ、世界観のすごさに圧倒されるような所がありますよね。どこか、ダンテの神曲にも通じるようなすごく大きな宇宙観。死に直面しての絶望、そこからの救済、上昇、そして天界へ到達し、悟りを得ると、今度はその真実のメッセージを、預言者として現世に向かって強烈に発信する・・・
上昇、到達、下降、その巨大な疾走感がすごいですよね。
でもその宇宙の中心には、やっぱりお母さんがいるという・・・中心部におかれたソプラノのソロは、どう聞いても、亡くなったブラームスのお母さんの声としか聴こえない。ブラームスって、やっぱりマザコンだったんだなぁ、と妙に納得しながら歌った記憶があります。

ヴェルレクはやっぱりオペラだよなぁ。どう聴いても。
でも今回歌ってみると、ベース・バリトンがすごくおいしい曲ですよね。ひょっとしてヴェルディって、ちょっとホモの気があったんじゃないかと思うほど、オペラでもバリトンが強いし、テノールバリトンの熱い絡みが多いしなぁ。ヴェルレクも、おいしい旋律を結構ベースがもらっていて、歌っていてとっても楽しい。
ちなみに、プッチーニは絶対サディストだと思う。いや、別に作曲家を全部変態にする気はないんだが。

でも、やっぱり、モーツァルトのレクイエム以上の曲はない気がするんですね。確かに、未完成だったせいもあるのか、各曲のバランスがあんまりよくない気はするんですが、それでも、冒頭のレクイエムの絶唱や、ディエス・イーレの恐怖感、レコルダーレの透明感とか、あの色合いの素晴らしさったらない。
レクイエム伝説や、映画「アマデウス」を観るまでもなく、あの曲を聴くだけで、この人は本当に死に直面している、本当に背中に死神を背負いながら、その恐怖におののきながら作曲している、というのを感じますよね。隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」じゃないけど、死人ほど怖いものって、やっぱりないわけですよ。
死を覚悟した人の凄みっていうのは、昨日もちょっと書いた、田宮二郎さんの「白い巨塔」の最終回の演技もそうだし、亡くなる前の1年間、少し舞台でお世話になった、合唱指導者の辻正行御大もそうですけど、その切迫感というか、そこからほとばしるエネルギーの量ときたら、これは本当にすごい・・・

そういう点で言えば、他のレクイエムは、やっぱり、自分の死、ではなく、他人の死から死を考えてみた、つまり生者が死について書いている曲なんじゃないか、と思います。フォーレのレクイエムとか、ラッターのレクイエムなんか、あまりに美しくて、死はこうあってほしい・・・という願望のようなものを感じます。それはそれでとても美しいのだけど。

死生観、というのは、それがそのまま宗教の核心を突いているから、レクイエムというのはその作曲家の宗教観・死生観・人生観の全てが凝縮されるのかもしれませんね。そういう意味で、どの曲もとても印象が強いです。キリスト教に疎い私でも、そこに込められた「死」というものへの思いについて考えさせられる、素晴らしい曲が多いですね。