「サラサーテの盤」「狐笛のかなた」〜朦朧の中の温もり〜

今日は最近読んだ二冊の本の感想文です。読んでない方にはちんぷんかんぷんの記述も出てくるかもしれませんが、ご容赦のほどを。

鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」を見たのは、大学生になってからだった気がする。封切られたのは1980年だから、私が中学生の頃なんだけど、映画にはまって名画座通いをしていた大学生になって、やっと見た気がする。そりゃ衝撃でした。なんじゃこりゃ、と思ったけど、腐りかけの桃の舌触りのような、生温かい千切りこんにゃくの触感のような生々しさが、グロテスクなのに何処か心地よく、何度も見返した映画です。

先日、図書館で偶然、この「ツィゴイネルワイゼン」の原作とされる内田百輭の「サラサーテの盤」を見つける。映画は好きだったのに、原作は読んでなかったな、と思って、何気なく手に取り、先日読了。大正の東京がどろりと溶けていくような、現実と幻想が生々しくも溶け合っていく曖昧模糊とした世界に浸る。内田百輭って凄いんだなぁ。「東京日記」なんか、夏目漱石の「夢十夜」よりよっぽど彼岸が見えてる気がする。トリップ感がハンパない。逆にこの内田百輭のトリップ感を鮮烈にエロティックにフィルムに焼き付けた鈴木清順という人も凄いなぁ、と思いましたけどね。決して負けてない。

ツィゴイネルワイゼン」を見た時に、とにかく出てくる女性が、妙に男性との距離感が測れていない感じがして、そこがすごく色っぽく感じたのです。大谷直子さん演じるヒロインが、妙に男性にしなだれかかってくるような、それでいてどこか空々しいような。雌の匂い立つ体温は感じるのに、その皮膚の下に人ならざるものが舌なめずりをしているような不気味さ。でもそれって、内田百輭幻想小説に共通する不気味さで、これがオリジナルだったのか、と納得。そしてオリジナルの方が、文字だけの分だけよっぽど怖いし、よっぽど正体不明。

現実と幻想、生と死、この世のものとあの世のものがどろりと溶け合ってしまう感覚、というのは、ある意味非常に日本的な感覚なのかなぁ、と思ったのが、全然違うジャンルなんだけど、先日読了した上橋菜穂子さんの「狐笛のかなた」の読後感。内田百輭の作品にもあるんだけど、人だと思っていたものが実は違う、というのは日本では昔からよく言われる話で、年老いた狸なんてのは、よく田舎の寺の住職さんやってたりします。「狐笛のかなた」では、まさしくこの世とあの世の境界である、「あわい」という世界が描かれ、人でも獣でもない霊狐、という生き物が活躍する。こういう朦朧とした世界観っていうのは非常に日本的だな、と思う。物語と現実が交錯してしまうエンデの「果てしない物語」ですら、現実と幻想の間には明確に境界が引かれていて、その境界を飛び越すかどうか、ということが一つのテーマになるし、「ナルニア国物語」では大きな古い衣装だんすの扉、という明確な境界がある。扉、門、巨大な石垣…こういう西洋的な境界は、「狐笛のかなた」には存在しない。人すらいつしか姿を変じ、獣の世界に溶け込んでいく。

それが美しくロマンティックに語られると、狐笛のかなたの世界になるし、東京の普通のトンカツ屋がグロテスクな異世界に変じてしまうと、内田百輭の恐怖小説になる。共通しているのは曖昧とした世界観、あちらの世界とこちらの世界が二重露光の写真のようにダブって見えている世界観。それって結構日本独特のものなんじゃないかなと思う。そういうと、「ラブクラフトの『クトゥルー神話』とか、結構二重世界的話だぞ」という人もいるかもしれないけど、あれは現実世界と全く異なる世界が裏側に存在していて、「あわい」のように現実と地続きになっていないし、禁断の扉を開く書、ネクロノミコンの力を借りないと境界を開くことができないよね。

さて、上橋菜穂子さんの本、先日「獣の奏者」に感動した、とガレリア座で言ったら、トランペット吹きの獣医さん(リアル獣の奏者やん)であるA乃ちゃんが、「狐笛のかなた」と守り人シリーズ全巻を貸してくれたのでした。先日、「精霊の守り人」を読了。この中の「ナユグ」と「サグ」っていうのはまさに二重に存在する世界だよね。若干クトゥルーっぽいかな、とも思ったんだけど、「ナユグ」と「サグ」には意思疎通のチャンネルも開いているし、お互いがお互いを支え合っているような感覚もある。こういう彼岸って、やっぱり日本的だなぁって思う。現在「闇の守り人」を読んでます。バルサかっこよすぎ。