東京室内歌劇場スペシャルウィーク「魔笛」〜今日的な舞台の中に、モーツァルトの希望と絶望を見る〜

3月19日、女房がアンサンブルに参加した、東京室内歌劇場スペシャルウィーク魔笛」の公演を見てきました。調布せんがわ劇場で毎年開催されているこのシリーズ、私は第一回の「ジャンニ・スキッキ」から全ての公演を見ていて、うちの女房は第二回公演からずっと出演している。そういうわけで、この日記でも何度もレビューを書いているんだけど、今回は観劇からちょっと時間が経ってしまいました。一部の出演者(というか、主にうちの女房)から、「今回の感想文はどうなってるの?」というご要望を受け、慌てて本日アップ。お待たせしちゃって申し訳ありません。

指揮:佐藤宏充
演出:飯塚励生
 
ピアノ:松本康
チェレスタ:高畠 愛
フルート:石井 希衣
チェロ:井尻 兼人
 
ザラストロ:金沢 平
タミーノ:谷川佳幸
弁者:三塚 至
僧侶1:寺西一真
僧侶2:齊藤義雄
夜の女王:末吉朋子
パミーナ:原 千裕
侍女1:海野美栄
侍女2:中島愛
侍女3:木村槙希
パパゲーナ:植木稚花
パパゲーノ:明珍宏和
モノスタトス:平野太一朗
 
童子1・2・3:Want2SINGers
合唱:大津佐知子・若月櫻子・黒澤陽子・細川美里・綾部健史・山田雄大
 
という布陣でした。
 
モーツァルトのオペラ、とくに「魔笛」というのは、数多くの評論や無数の解釈を生み出してきた作品で、この作品について何かを語るにはそれなりに覚悟が必要なんだろうな、と思う。これから書くことは、そんな覚悟も何もなしに書き散らかした戯言なんで、過去の優れた評伝や研究との矛盾や重複などを学術的に厳密に突っ込む、なんていうシビアな目で読まないで下さいまし、と、まずは最初に言い訳。

今回の「魔笛」、舞台は遊園地、あるいはサーカス。日常生活と地続きでありながら、そこだけ日常から切り離された異世界である、遊園地、あるいはサーカスという場面設定によって、この物語はファンタジーだけれど、我々が住んでいるこの世界そのものとつながっている、よりリアルな物語としてとらえてほしい、という演出意図が垣間見える。ナルニア国物語で、洋服ダンスの中に飛び込んだ子供たちのように、三人の子供たちは、現実世界からサーカスの中の迷路を通り抜け、その先にある異世界に飛び込み、その世界の葛藤を解決する。その解決は、現実世界の葛藤へ道筋を示すものとなる。

その全体構造の中で、個人的にすごく印象に残ったのは、身内が演じたから・・・という理由が大きいのかもしれないけど、「ザラストロの側に女がいる!」ということでした。「魔笛」の物語は、男性原理=父性=善と、女性原理=母性=悪の対立、という二元論で語られることが多くて、ザラストロと神官たちという男グループと、夜の女王と侍女たちという女グループが、その二元論に沿って対比されることが多いと思うんです。しかし、今回の演出では、女房が演じた女声合唱の人たちが、ザラストロ側のグループに加わっていて、グループの重要な意思決定にも一票を投じていたりする。その結果として、一般的な「魔笛」の演出の基本構造になる二元論に歪みが生じる。演じた女房が言うには、「ザラストロ側のグループって、どこかオバマ大統領とその取り巻き、みたいな感じなんだよね」と。

「大統領選挙のニュースとかで、大統領の後ろに立っている支持者さんたちがいたりするじゃん。あんな感じ。今回トランプさんが大統領になったのが、『アメリカのエスタブリッシュメントの敗北』みたいに言われるけどさ。ザラストロさんって、まさに選ばれた人たち、エスタブリッシュメントのリーダーって感じがするんだよね。そしてそのエスタブリッシュメントには、女性も加わっている。オバマさんの支持者に女性がいるみたいに」

男性原理と女性原理の対立ではなく、ザラストロを中心とする選ばれた人々と、そこからはじき出された者たちとの対立。それってまさに、今アメリカが直面している国内分裂の構図じゃない?

アメリカのエスタブリッシュメントって、ある意味非常に矛盾した存在で、ダイバシティを基本としながら、強烈な選民思想に染まっている。人種差別や偏見を深層意識に内在させながら、それを乗り越えてくるマイノリティへの尊敬と受容を美徳とする。そういう価値観にとって、黒人というマイノリティ=障害を乗り越えて高い人格を得たオバマ大統領というのは、最も尊敬されるべき人物像として評価されたりするわけです。

そう思って、今回の「魔笛」をかなりこじつけっぽく深読みしてみる。エスタブリッシュメントの集団であるザラストログループの外にいるのは、タミーノ、パパゲーノ、パパゲーナ、パミーナ、夜の女王、侍女、そしてモノスタトス。タミーノは日本の王子、つまり異邦人、今どきの言葉で言えば、移民だよね。パパゲーノとパパゲーナは肉体労働者。パミーナ、夜の女王、侍女は女性。モノスタトスは黒人の前科者。

要するに、実際のアメリカ社会においても、差別や偏見によって格差社会の底辺であえいでいるのと同種の人たちが、ザラストログループの外にいる。まさに現在のアメリカを二分している格差の構造。その障害を乗り越え、試練を越えてタミーノとパミーナが「選ばれし者」になる物語、としての「魔笛」。そういう非常に今日的なテーマが透けて見えてくる。

そう見ると、「魔笛」が内在するもう一つの「毒」「偏見」も、はっきり見えてきた。身もふたもない言い方をすれば、「女はダメ」という価値観。男女の二元的な対決、というよりも、男性の方が優れている、優位である、という価値観がよりくっきり見えてくる。実際、セリフの中でも、「女は劣っている」という言葉が何度も出てくる。パミーナが選ばれし者となれたのは、あくまでタミーノが彼女を導いたから。

それは、もともとモーツァルトがこの作品を作る際に参考にしたフリーメーソン結社における当時の大きなトピックでもあった、と聞いたことがあります。女人禁制であったフリーメーソン結社に女性を加えてよいかどうかという問題。ヨーロッパ各地のフリーメーソン支部でこの問題について喧々諤々の激論が交わされ、一部の支部では女性を受け入れ始めたりしていた、という事実が、この作品に反映されている、という話。そういえば、有名ゴルフクラブがやっと最近になって女性会員を受け入れることにした、なんてニュースがありましたねぇ。

そう思うと、私は、モーツァルトのもう一つのオペラ「コシ・ファン・トッテ」を思い出さずにはいられないんです。女は全てこうしたもの、と言い切った猛毒女性蔑視オペラ。「後宮からの逃走」で、どんな逆境にあっても貞操を貫くヒロインを描いたモーツァルトが、ここまで「オンナはアカン」と絶望しちゃったのは何でなんですかねぇ。やっぱりコンスタンツェってのは悪妻だったのかしらん。もちろんその一方で、パミーナがタミーナへの愛によって善の世界へ導かれるハッピーエンドを描くところが、モーツァルトなりの優しさや願望なのかもしれないんだけどね。ザラストロを殺すことができなかった夜の女王が許され、全員が大団円の合唱に和すラストシーンは、モーツァルトのコスモポリタニズムを反映しつつ、アメリカ育ちの演出家、飯塚励生さんの願望も反映されているようにも思いました。

今回の出演者、各ソリストの安定感、全体のアンサンブルのバランス、どれをとっても室内歌劇場ならではの高水準で、テンポのいい舞台転換も加わって最後まで本当に楽しかったのだけど、特にこの人、と言うのなら、夜の女王の末吉朋子さん。超高音域のコロラトゥーラの技術の完璧さだけじゃなく、この方の真骨頂は、中低音域でも響きの芯が全くぶれないこと。うちの女房は「太鼓の達人」と呼んでおります。さすがの達人技でした。そして、パパゲーナの植木稚花さんの相変わらずのキュートさに、例によってオジサンめろめろ。

「ザラストロ側の侍女」を演じた女房どの、今回は、過去のせんがわ劇場公演での経験を買われて、半ば舞台スタッフのような形でのサポート参加だったけれど、安定感のある合唱アンサンブル含め、自分の与えられたポジションをしっかり演じ切って見事でした。フクロウのしっぽはどうやって震わせていたのか、一生懸命見たけど結局分からんかったなぁ。

せんがわ劇場のシリーズ、来年の予定はまだ決まっていないようですが、過去の公演のような滅多に見ることができない佳作の上演も含め、このシリーズならではの冒険的な演目、斬新な演出を期待しています。スタッフの皆様、出演者の皆様、お疲れ様でございました!感想文が遅れて誠に申し訳ございませんでした!


終演後の舞台。唐木みゆさんの舞台美術は相変わらず柔らかくって素敵でした。