竹駒神社から、陸前高田の市内に戻る。大船渡は、市役所や病院が高台にあり、内陸側の商業エリアである盛町の被害が軽微だったために、町の機能が部分的に生き残ることができました。さらに、太平洋セメントが津波の被害にあった高炉を再開してがれき処理を進めるという英断を下したおかげで、街の主力産業の一つが稼働している。結果として、大船渡の被災エリアに山積していたがれきの山は、かなり小さくなっています。とはいえ、盛川沿いのリサイクル処理場には、相変わらずかなり大きながれきの山が再処理を待っていましたが。
陸前高田は、市役所・病院を含めた市街地の大部分が津波にのまれてしまった。高田一中など、高台に生き残った公共施設をフル活用して、仮診療所や仮庁舎を作り、街の機能を維持しようと地元は必死に頑張っていますが、広大な更地と化した市街地には、いまだにがれきの巨大な山が小高い丘のように連なっています。それでも、がれきは分別が終わり、次第に小さくなってきているそうです。
壊すのも大変な鉄筋コンクリートの破壊された建物が点在する。
破壊されたMAIYAの建物は、陸前高田の被害を象徴している。
広がる更地と、破壊された建物たち。義姉は、「大船渡には映画館とか、遊び場がないからね。中学生や高校生はみんな、陸前高田に遊びに来たもんだったよ」と言います。このMAIYAは陸前高田の中心街にあり、写真の更地になった場所は、たくさんの商店が立ち並ぶ繁華街だった。
大きなタンクが転がり、その向こうにはがれきが積みあがっています。
MAIYAのそばには、4階部分まで津波に襲われ、屋上に逃れた100人あまりだけが生き残った市役所がまだ残っています。市役所の斜め前にある施設では、お年寄り向けのイベントが開かれており、そのお年寄りを助けようと市役所を出て、津波にのまれた職員さんもたくさんいたのだそうです。
市役所の向かい側にあり、市の指定避難所にもなっていた市民会館
市民会館は建物全体が津波にのまれ、避難してきた70〜80名の市民のうち、生き残ったのは10数名だったそうです。この市民会館は、女房が子供の頃、ピアノ発表会をした会場だった、と、義姉が教えてくれました。たくさんの人たちの日常や思い出が、全て破壊された町に、お彼岸ということで、花を持って訪れる家族連れを何組か見かけました。