大船渡に行ってきました(そのいち)

先日、NHKを見ていたら、鶴瓶さんが出ている、「家族に乾杯」で、大船渡市内に開業した「おおふなと夢商店街」が取り上げられていた。やっと元気になってきた街に、無性に行きたくなる。大船渡は、女房の実家、ということもありますけれど、娘が生まれた町でもあり、この日記でも昔書いた、蔵しっくこんさーと、というサロンコンサートや、リアスホールのこけら落とし公演の気仙第九の演奏会など、楽しい思い出をいっぱいくれた町です。カレンダーを見ると、20日の春分の日ガレリア座の練習もなく、ぽっかり予定が空いている。家族が4月に帰国して、新しい生活に忙殺されるようになると、今度はいつ行けるようになるか分からない、と、急に思い立って行くことにしました。19日夜に池袋を出る夜行バスに乗り、20日の早朝に到着、近辺をうろうろして、夕方、新幹線で帰る、という旅程。最初は、ボランティアに参加しようか、とも思ったのだけど、大船渡のボランティアセンターに連絡してみると、週末しか受け入れていない、とのこと。東京のお金を使って、大船渡の復興商店街などで買い物をして、NYに行く時のお土産にする、というのを主目的に切り替える。地元に東京のお金を落とし、NYで復興支援に頑張ってくれている混声合唱団の人たちにお礼もできる。一石二鳥じゃん。

ということで、行ってきました、大船渡。たぶん長いレポートになると思いますが、しばらくお付き合いください。

19日の夜、夜行バスは池袋22時50分発のけせんライナーです。仕事を19時くらいに終えて、会社の近くの東京ドームの中、スパ・ラクーアに行く。こんな機会でもなければいくこともないだろう、と思って立ち寄ったのだけど、すごく心地よかったです。平日の夜、ということもあって空いていたので、サウナから色んな種類のお風呂を存分に楽しむ。館内のレストランはかなりいい値段だったのだけど、カフェ・メレンダというカフェテリアは結構リーズナブルなお値段で、一人で湯上りのビールを楽しむ分には十分。


オープンデッキはまだ寒かったけど、夜景は最高。

十分リフレッシュしてから池袋へ。池袋発のけせんライナーは、娘が生まれたばかりの頃、何度か使ったことがある。でも、どちらかというとあまり混んでいない印象で、1台のバスが3分の1くらい埋まってるかな、という感じだったという記憶。でも、発車時間になってみれば、1号車・2号車と2台のバスがほぼ満席。待っているお客様の顔ぶれも、とにかく若い人が多い。大学生くらいのグループや、30代くらいの方々など、ボランティアと思われる人たちが多数乗り込んできました。けせんライナーは片道9000円もしないくらいのリーズナブルなバスで、陸前高田、大船渡、釜石、と、被災地を北上していきますから、ボランティア目的の大学生にはありがたい足なんでしょうね。

とはいえ、47歳のおじさんには夜行バスの固い座席はなかなかしんどく、ただでさえ眠りは浅いのですけど、うとうとしながら、北上するにつれ、道路の状態が悪くなってくるのがわかる。昔のけせんライナーはこんなに揺れなかったんじゃないか、と思うのだけど、ガタガタ、という震動が結構頻繁にやってくる。夜だし、カーテンで外の様子は見えないので、どういう状態かは分からないのだけど、こんなところにも震災の影響があるのかな、と思いながらまんじりともせず夜を明かす。

陸前高田市役所前、と言われて、何人かのお客様が降りる。窓際の空いた席に移って窓の外を覗いてみる。プレハブ3階建の建物が3棟くらい並んでいて、同じくプレハブの商店が何軒か並んでいる。薄く雪をかぶった真新しい土の色で、そこが最近出来上がったばかりの、仮庁舎や、仮設の建物群であることがわかる。バスの窓、カーテンの隙間から見た光景では、まだ全体像は見えていませんでしたが、そのあと、大船渡に向かって走るバスの窓からちらちらと見えた陸前高田の光景は、言葉を失うものでした。バスは海沿いの道を走り、高田松原のそばに建っていた、Capital1000というホテルのそばを走ります。このホテルは、私が大船渡の女房の実家に、結婚の報告をしに行った時、泊まったホテルでした。ホテルの窓から見えた幻想的な高田松原の光景は跡形もなく消えており、このホテル自体も、無残に破壊された状態でただ立っていました。建物としての機能が破壊されて、それでもただ立っているコンクリートの塊。

大船渡に近づくにつれて、街の印象が少し変わってきます。今回の旅で一番実感したのは、この明暗のコントラストの激しさでした。今回の震災について語る時、太平洋戦争の破壊を引き合いに出す人はいるけど、敗戦という事実は全国民が分かち合った事実だったし、日本中の国民が、程度の差はあれ、自分の身内の誰かを戦地で亡くしているなど、何らかの影響を受けていた。でも今回の震災は、どす黒い海水が到達した場所とそうでない場所で、国土を、街を、きれいに2つの色に塗り分けてしまった。押し流された町と、残された町。残された町では、ライフラインの復旧とともに、日常が戻ってくる。押し流された町には何も残っていない。それは、東北とその他の地域、放射能のために帰れない町と帰れる町、と、色んなところで出てくるコントラスト。それが、三陸の街では、津波というわかりやすい絵の具がきれいに街を色分けしてしまっている。

陸前高田と大船渡を結ぶ45号線は、かなり高低差のある道なので、高く坂を上っていくと、私の記憶に残る昔の街並みがそのまま残っている。坂を下っていき、ある程度の低さになった途端に、街の様相が変わる。急に更地が多くなる。その繰り返し。

繰り返しの先に、女房の実家がある盛町があります。サンリア、という大きなショッピングセンターが、この盛町の中心になっていて、水はこのサンリアまで押し寄せた。女房の実家が無事、というのは聞いていたのだけど、一面床上浸水し、汚れた海水に浸ったこの街が、今どうなっているかが気になっていました。バスを降りて周りを見渡せば、記憶にある街並みはそのままで、本当にほっとする。


サンリアは昔のままでした。


盛町の交差点。街並みは昔と変わらず。

昔と変わらない、と書いたけれど、真っ黒な津波は町中を泥と悪臭で埋め、きれいに掃除した後も、なかなか匂いが取れず、今でもかすかに異臭が残っている家もあるそうです。街の外見は昔のままですし、何もかも失われた陸前高田大船渡駅周辺に比べれば、盛町はいい方、と言われればそうですが、昔の日常が戻っている、と思ったら大間違い、というのもやはり事実です。

長くなる、とは思っていましたけど、第一回で、大船渡につくところまでしか書けませんでした。引き続き、レポートを書き連ねていきたいと思います。