時代と音楽、時間と音楽(その1)~ユニコーン・シンフォニー・オーケストラ演奏会~

音楽っていうのは色んな意味で時間との関係の中で語られる芸術のような気がします。特にライブ演奏が表現のメインとなっている音楽ジャンルでは、そのライブ会場の空間を共有する時間の中に満たされている音楽が、時間の経過と共に高揚していく状況自体が、その人の人生の中に忘れがたい記憶として残る。三次元の空間に「時間」という次元を加えた「四次元」の芸術である、というのが音楽の一つの特性で、「記憶」というのもそういう四次元の性質を持っている。そういう意味でも、「音楽」というのは他の芸術と比べて人間の感情に訴える力が強いんじゃないかな。

刷り込まれた四次元の記憶は、幸福な記憶ばかりとは限らない。苦い記憶と結びついた音楽が日常の中で突然耳に入ってくると、その時の心の傷が生々しい血を噴き出して居ても立っても居られなくなる、という経験って、誰もが少なからず持っているものじゃないかな。文学にせよ絵画にせよ映画にせよ、自分から手に取ったり、映画館に行ったりしないと触れることができない芸術だと思うけど、音楽というのは日常の中で突然街中に流れてくることがある。村上春樹の「ノルウェイの森」も、音楽がもたらすタイムスリップ感覚が一つの大きなテーマだったし、中島みゆきさんの「りばいばる」というのも、そういうしんどい記憶を呼び覚ます曲がリバイバルされて街に流れる、というトラウマ曲でした。

何を突然言い出したの、と思われるでしょうが、先週のインプットの中で、こういう「音楽と時代」、あるいは「音楽と時間」というものを意識する経験があったんですね。一つ目が、2月18日、横浜みなとみらいホールで開催された、ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏会。二つ目は、2月19日に東劇で鑑賞したMETオペラのライブ・ビューイングめぐりあう時間たち」。今日はその1、として、ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏会で聞いた、橋本國彦先生の「交響曲第一番」のことを書きます。

ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの演奏会は、娘がチェロで参加しているご縁で伺いました。「交響曲第一番」は演奏会の冒頭で演奏されたんですけど、これが素晴らしい曲だったんですよね。日本人が作曲したオーケストラ曲、といえば、伊福部昭の曲や武満徹の曲が演奏されることが多いけど、橋本國彦の曲、というのは滅多に演奏されることがない。我々歌い手からすると、橋本國彦というと、「舞」という歌曲の名曲があるんですが、他の曲については不勉強で全く知らずにいました。

交響曲第一番」は、日本的なモチーフを使いながら、それを嫌味なく洗練された手法で西洋音楽の文法の中に溶け込ませて、なおかつ重厚な高揚感を感じる名曲で、これが現在ほとんど演奏されない、というのが本当にもったいないなぁ、と思った。でもその大きな理由というのが、この曲が1940年に日本で作曲された皇紀2600年奉祝曲の中の一曲だった、という、時代のもたらした不幸なんだよね。加えて橋本國彦先生ご自身が、戦時下での行動を理由に公職を辞し、その後早逝された(1949年、44歳で没)、という作曲家自身の悲劇も理由の一つだったのじゃないかな、とも思います。

戦争という、多数の人間の感情を一つの目的に向かって誘導しなければならない状況において、四次元的に人の感情に訴えることができる音楽というツールを用いる、というのは、ナチスドイツがそのプロパガンダに用いた手法で、日本でも第二次大戦で多数の軍事歌謡や国威発揚のための音楽が作曲された。橋本先生が公職を辞したのも、そういった曲を作曲したことが軍部への協力と見なされたことが主因だったし、これらの音楽の多くが戦後封印されてしまったわけだけど、封印しなければならなかったのはこれらの軍事歌謡や国威発揚の音楽に名曲が多かったことも一因だったようですね。ナチスドイツ下の国威発揚の曲も名曲が多いし、日本の「軍歌」と言われる曲にも名曲が多い。戦争という危機的状況が芸術家の創作意欲をかきたてる、というのは、藤田嗣治戦争画の例を見ても確かなんだけど、いい曲だから余計に、その曲が演奏された「時間」と「空間」において高揚した記憶がトラウマとしてよみがえっちゃうんだろうな。

でも、橋本國彦先生の「交響曲第一番」のような名曲が埋もれてしまうのは本当にもったいないと思います。この曲を発掘演奏するのに楽譜をそろえるのも大変な苦労だったようで、ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの方々の熱意と努力には本当に頭が下がります。プロにはできないチャレンジができるのがアマチュアの強みだし、こういう埋もれた名曲って世の中に沢山あるのじゃないかなぁ、と思うので、アマチュアに任せるのじゃなくて、プロのオーケストラもこういう封印された名曲をどんどん復活させてほしいなぁって思いました。時代が求める音楽もあれば、時代に埋もれてしまう音楽もある。埋もれてしまった音楽の中には、誰かに発掘されるのを待っている宝物も沢山あるかもしれない。演奏されなければ鑑賞することができない、というのも音楽の持っている「四次元性」の呪いで、だからこそこういう演奏家の挑戦って価値があることだなぁって思います。

リニューアルされた横浜みなとみらいホールもキレイでした。「交響曲第一番」・ラヴェル「ラ・ヴァルス」・ストラヴィンスキー火の鳥」という選曲と曲順もとてもセンスが良かった。ユニコーン・シンフォニー・オーケストラの皆さん、娘がお世話になりました。素敵な時間と空間を届けて下さって、ありがとうございました。