ここまで、で妥協するか、ここまで、で絶望するか、ここからまた、とあがくか

最近ブログの更新が滞っていてすみません。何か書きたいことや、インプット・アウトプットがあったら、と思っていたら、1か月近く更新できなくなってしまいました。それなりに色んなインプットはあったのだけど、Facebookで小出しにしたり、しっかりまとまった言葉にできないでいるうちに、こんなに間が空いてしまった。今回は、先日読了した藤谷治さんの「船に乗れ!」三部作があまりに心に沁みたので、書く気になりました。チェリストが主人公の音楽小説ということで手に取ったのだけど、最近読んだ本の中でもすごく沁みた一冊。こういう本に沁みているあたりが、精神的に未熟な証拠なのかもしれないけど、沁みるもんはしょうがない。同じ時期に読んだ「おやすみラフマニノフ」が、音楽をただのネタにしたミステリーで、音楽が血肉になっている「船に乗れ!」の生々しさから遠いところで音楽が小道具として使われていて少し不愉快だったから余計に、「船に乗れ!」の、作家自身が肌身に感じている痛みが胸に沁みました。

高校生の時には物書きになりたかったなぁ、と、「船に乗れ!」を読みながらそんなことを思い出していました。そういう自分の、適わなかった夢、ままならない現実を否応なしに思い出させる本。ずっと、文章を書いて生活する人間になりたいと思ってたなぁ。大学生になっても、社会人になっても、どこかでその夢はずっと見ていた。でも大人になってみて、実際に身内がそういう職業についているのを見ると、絶対に越えられない壁の向こう側とこちら側をまざまざと見せつけられるような気がした。積み重ねていく努力、その努力を苦と思わない才能、何を取ってみても、やっぱり自分には届かない夢だったんだと。

今力を入れている舞台表現には、それなりにカタルシスもあるし、人よりは表現力も歌唱力もあると思ってた。でも、もともと持ってたものだけで勝負しようとしても、日々積み重ねている人に敵うわけはない。女房がしっかり自分の表現を磨き、日々しっかり積み重ねて前進している姿を見ても、やっぱり自分には届かない領域があるんだなぁ、と思い知らされる。どう頑張っても越えられない壁。ままならない現実。

今日、娘のピアノの発表会で、娘は大好きなドビュッシーアラベスクの一番を弾いて、とても上手に弾けたところもあったけど、どうしても弾けないパッセージが克服できず、演奏が終わってからすごく悔しがっていました。パパも女房とのデュエットで、歌詞は間違えるわ、どうしても克服できないフレーズはやっぱり崩壊するわ、随分悔しい思いをした。一年に一度の家族のイベント、達成感や克服できた課題もあって、満足感もあるけれど、悔しい思いも半端なくある。振り返ってみれば、過去色んな舞台を経験してきて、どの舞台でも同じような思いをしてきたなぁ、と思う。お客様も大満足、大好評に終わった舞台であっても、どこかで自分のパフォーマンスへの不満や、あそこで失敗した、もっとできたはずなのに、という悔しさは残る。そんなに悔しいのに、なんで次の舞台をやろうと思うんだろう、と考えたこともある。趣味なんだから楽しく続けていればいいものを、なんだか悔しくて続けているようなそんな気になることもある。

でも考えてみれば、音楽という表現を選んだ時点でゴールはなくて、完璧なパフォーマンスなんてのは恐らくありえない。一つの舞台に無数に存在する音符、その音価、言葉、フレーズ。演技、所作、セリフの間、そういう無数の要素の無限の組み合わせの中で、その日の自分にとってパーフェクトな選択を100%完遂する、なんてことはほぼ不可能。よしんば100%に近いパフォーマンスができたとしても、そこでクリアしたハードルの向こうには新しいハードルが見えてくる。その途端、過去のパフォーマンスはまた不完全なものに見えてきて、昔の自分に対する悔しさや恥ずかしさが湧き上がってくる。ギリシャ神話のシシュポスのような無限の責め苦。

「船に乗れ!」の中で、ポップスやカラオケのバックミュージシャンで荒稼ぎしている先輩が、チェロは儲かるぜぇ、と言うセリフに、主人公が嫌悪感を抱く、というエピソードがあります。それは、無限の高みへ向かっていく努力を放棄して、自分のある「ここまで」の引き出しを、「技術」としての音楽を、切り売りして生活の糧にしているさもしさに対する嫌悪感なのだけど、音楽の高みを絶対視しすぎたピュアすぎる高校生の青臭い感想、と言えなくもない。だから主人公はその高みにたどりつけない自分の能力の限界を知った時、どうせたどり着けないのなら、と音楽を職業にすることを放棄する。音楽を愛するが故に逆に踏み込めない、その純粋さは感動的ではあるけど、でもやっぱり、そんな風に「ここまで」で絶望したくはない。音楽を職業にしている人だって、日々自分の技術を維持し、さらに自分の技術の価値を上げるために努力しているのだし、その努力はけっしてさもしいものじゃないと思う。

「毎回悔しいさ」、と女房は言います。「毎回悔しいけど、そういう悔しい部分、届かない部分も含めて今の自分。その今の自分の精一杯をどこまで見せられるか、が毎回の挑戦なんだ」と。今の自分の精一杯を見せないことが、お客様への不誠実につながる。お客様に誠実であること。自分に誠実であること。

ここからまた、とあがき続けなければ。それはすごくしんどいことだし、何のためにやってるんだろう、と投げ出したくなることもいっぱいあるけど、でもやっぱりあがき続けなければ。50歳近くなって、そろそろ先も見えてきたけど、でもそれでも自分がこうやって続けていることが、いったいどこまで到達するのか、その到達点を見極めてみたい、そんな風に自分を鼓舞する日々です。