大久保混声合唱団第33回定期演奏会〜外に向かって的確にボールを投げること〜

昨日、文京シビックセンターで開催された大久保混声合唱団の演奏会を、ステマネとしてお手伝い。舞台裏の進行については、一応合格点がつけられる内容で、ほっとしています。小さなミスが一つと、団員さんへの周知不徹底があって、ちょっと段取りが混乱した所があったのですが、なんとかフォローできました。中々カンペキな舞台ってのは難しいなぁ。

個人的には、山台の組み上げ作業と撤収作業で、自分でも驚くほど大量の汗をかいてしまって、日ごろの運動不足を痛感。撤収作業を手伝ってくれたダンサーのK君は、涼しい顔で汗一つかかず、重たい山台をひょいひょい運んでいくんですが、同じ作業をしているはずの私は、汗まみれでゼイゼイ。さらに悲しいことに、翌日の今日になっても、筋肉痛が出ていない。足のだるさとかはあるんだけどね。数日後、忘れた頃に痛くなってくるんだろうなぁ。年はとりたくないなぁ。

今回の演奏会では、キャッチボール、というか、内にあるものと、それを外に出していくこと、というテーマを、自分なりにすごく感じた演奏会でした。レセプションでダンサーのK君が、「時間表現」という言葉を口にしていたのだけど、演奏会などの舞台表現では、リアルタイムで表現者と観客が向き合う。このブログでよく言う、「一期一会」の表現です。そこで、時間の流れに沿った「キャッチボール」が行われていくのが、舞台のような「時間表現」。(K君は、「デートみたい」と言っていました。どきどきしながら、こう言ってみたら、相手がこう出てきた、みたいな感覚。いいたとえだ。)

そういう意味では、今回の演奏会、まず、集まったお客様がとてもよかった。冒頭の合唱団の入場から、暖かい拍手で会場が包まれる。大久保混声合唱団という団体を愛して、支えてくれるサポーターの人たち。身内、といえば響きは悪いのだけど、やっぱりそうやって、「さぁ、何を聞かせてくれるの?」と目を輝かせて見守ってくれる受け手がいてくれる、というのは、団体にとって大きな財産だと思います。

そういう「受け手」に対して、「送り手」である合唱団が的確なボールを投げると、観客からも確実に戻ってくるものがある。それは終演後の拍手、という分かりやすい形でも現れますけど、客席から伝わってくる熱気のような、なんとも言いがたい空気のようなものだったりします。よく我々が舞台をやる時、「今日の客席は最初から温まっていたねぇ」なんて言います。いくら表現しても、受け手がどんどん引いていくような、寒々しい感じになる時もあって、「ああ、まだ客席が温まってないなぁ」と思う。そういう意味では、今回の演奏会の客席は、最初からいい感じに温まっていた。

4つのステージの中では、個人的には、第二ステージの、ボブ・チルコット作曲「イソップ物語」が、一番秀逸だった気がしています。演出を我が女房どのが取り、ダンサーのK君が洗練されたパフォーマンスでそれを表現し、その表現に対して、T先生の指揮する合唱団がしっかりと音楽表現をぶつけていった。いくつものキャッチボールの果てに生まれた密度の濃い舞台。

さっき、送り手が的確なボールを投げれば、受け手から確実に手ごたえが返ってくる、と書きました。的確なボールを投げるためには、やはりテクニックが必要です。そのテクニックも、むやみやたらに筋肉トレーニングをやればいい、というものではなくて、しっかりした道しるべに沿って、方向性をそろえた的確なトレーニングが必要。

今回の「イソップ物語」では、事前の練習の時より、本番の演奏のクオリティがとても高かった印象。それは恐らく、K君のパフォーマンスによって、曲のイメージを目に見える形で与えられた合唱団が、そのイメージに応えるために、短期間で最も効率的なトレーニングを積んだ結果だったんだろう、と思います。実際、直前の1週間で、団員さんは必死に英語の語りの練習を重ねたそうな。こういうキャッチボールによって、表現の質が相互に上がっていく、というのがいいなぁ、と思う。

いろんな表現が内にこもる傾向がある昨今。少数の内輪受けが許容され、ネット上のムラ社会ではその社会の中だけで通用する符丁が跋扈しています。そういう時代に、舞台、という、リアルな時間表現によって、「外に向けて投げかけること」を続けていくこと。その意味について、改めて感じさせてくれた演奏会でした。大久保混声の皆さん、お疲れ様でした。10月まで、立て続けに大きな本番がありますけど、みなさん体に気をつけて頑張ってくださいね。