ストーリを作る力

昨日の「のだめカンタービレ」を見ていて、なんとなく、先日の、大学の同級生たちとの雑談を思い出しちゃいました。今日はその話。

大学の同級生たちとの雑談の中で、「なんでオレたち、こんなに働いてるんだろうねぇ」という話になる。「オレたちが入社したころの次長とか部長って、椅子にふんぞりかえって、部下に指示だけ出して、自分じゃ全然仕事しなかったよなぁ。」「なんてオレたちは、自分で資料作ったり、会議仕切ったり、自分達でこんなに仕事してるんだろう。」

そもそも、「部下自体がいない」という人もいる。「仕事の量が多くて、部下だけでは回せなくて、自分も働かないとダメだ」という人も多い。リストラの影響で、どの企業でも仕事の割りに人が増えてませんから、そういう状況も確かに多いんです。でも、やっぱり多数意見だったのは、「部下に仕事を任せていると、期待しているアウトプットが出てこない」という愚痴。

「最近の若者は…」という話になってくると、やけにオッサン臭くなってくるのですが、話はどうしてもそういう方向に。「最近の若者はさぁ」と誰かが言い出す。

「こうしなさい、と段取りしてあげた上で、課題を与えると、ものすごく処理能力が高いよね。すごく早く、正確なアウトプットを出す。でも、『段取りをつけて』とか、『課題はどこにあるのか』とか、『その課題を解決するために、どういう作業が必要になるのか』といった話をすると、全然ダメ。自分で仕事のプロセスをくみ上げて、スケジュールを組んで、という段取りをつけるのがすごく苦手だね」

「それって、子供の頃からの教育方法にも問題があるんだよ。全部段取りが与えられている。段取りを考えて、発見していくプロセスを子供に教えない。ステップ1、ステップ2、という形で、回答に至るステップを、すごく細かく手取り足取り指導していく。落ちこぼれを作らないための工夫なんだろうけどね。」

「マニュアルがあれば、ものすごく処理能力は高いけど、肝心のマニュアル本体を作れ、と言われると立ち往生してしまうんだね。」

そんな会話の中で、こんな話を思い出しました。以前女房に聞いた話で、一部うろ覚えなのだけど、高校生の国語の問題で、こんな問題が出題されたんだって。

「あなたが町を歩いていると、前から、おじいさんがやってきました。おじいさんが、あなたに、郵便局に行くにはどう行けばいいか、と尋ねます。あなたの現在位置から、郵便局までの地図は下図の通りです。おじいさんは足が悪い上に、目も少し不自由なようです。おじいさんに、郵便局までの行き順を説明する文章を作文しなさい。」

これが、「目も足も悪いおじいさん」「郵便局」「地図」という組み合わせをいくつか変化させて、3つくらいの問題にして選択式で出題されたんだって。「子連れのお母さんが幼稚園を探しています」とか。与えられた地図には、目も足も悪いおじいさんが通れそうにないような工事中の道路とかがあったりする。なかなかいい問題じゃないか、と思うのだけど、これの正答率が、異常に低かったそうな。他の問題の回答率が高い優秀な生徒も、この問題は全然回答できなくって、泣き出してしまう子もいたらしい。

「要するに、自分とモノ、の関係、自分と周囲、の関係を、自分中心に記述することは出来ても、他人と自分を含めた全体像や、他人の視線から見た世界、を記述することが出来ないんだね。非常に限定された視野でしかモノを見ることができない。全体像を見渡せないから、課題を見つけて、その解決策を立案する、といった全体のストーリを書くことができない。」

こんな会話を、昨夜の「のだめカンタービレ」で思い出してしまったのは、Sオケの連中が、「楽譜に忠実に!」と叫び続ける千秋くんに答えるために、楽譜ばっかり見て、指揮を一切見ない演奏をするシーンが、なんとなくこの話に重なったから。楽譜=マニュアルと、それを見つめて再現している自分以外の世界がない。そこから視点が外に出て行こうとしない。結果として生まれた音楽は、千秋くんが悪酔いするほどキモチワルイものになってしまう。

楽譜に忠実に演奏することを否定するつもりはなくって、それはとても大事なこと。でも、楽譜に忠実に演奏することの意味、というのは、本来、楽譜に書かれた作曲家の意思をくみ上げていく、「作曲家の視点」がどこにあるのか、を捕まえる作業であるはず。作曲家の視点を捉え、作曲家の意思と会話をする中で、演奏家自身の視点の発見や、自己表現が生まれてくる。

Sオケの連中が、楽譜と会話をする中で、自分自身が感じた表現方法を捉まえていく。その過程を見つめることで、千秋くん自身が、楽譜の向こうにある自己表現のあり方を捉まえていく。自分の視点から、作曲家の視点へ、演奏者の視点へ、そしてそれら全体を高みから見通す、「音楽そのもの」を構成する広い視野へと、ぐるりと大きく世界を一周する長い旅。

ドラマの中で、原作になかったセリフとして、「どうしてシュトレーゼマン先生は、このオケに、標題が存在していないベートーベンの7番を課題として与えたんだろう」と千秋くんが呟くシーンがあります。「標題」という形で道しるべが与えられていない曲だからこそ、音楽そのものの持っているパワーをそのまま捉まえることができる。マニュアルのないシチュエーションの中で、「楽譜」という形で語りかけてくる作曲家に、演奏家がどうやって答えることができるのか。自分自身の表現というストーリをどれだけ自分自身で描くことができるのか。道しるべはない。自分で発見するしかない。

とりとめないですけど、なんだか色々と考えてしまった「ベト7」でした。しかしやっぱりいい曲だよねぇ。とはいえ、あのアクロバット演奏しながら、あの4楽章はさすがに弾けまいよ。