オペラ、なんていう大層なものをやっていますが、私は楽譜を読むのがむちゃ苦手です。拍を数えることはできますが、音の高低を楽譜から読み取ることができない。「イ長調」とか「シャープが一つだと基音はト」とか、「移動ドで歌ってごらん」とか言われると、さっぱりワヤになってしまいます。
そういうことが分かっていない人間がよく音楽をやってるな、と女房あたりからは非常にバカにされるんですが、オペラを始めたばっかりの頃は、楽譜がろくに読めない自分をどこかで自慢していたような部分があった気がする。ちょっと考えるとヘンなんですけどね。要約すれば、「楽譜が読めないのにこんなに歌えるオレ」という誇り。でもねぇ、やっぱり音楽をしっかりやろうと思ったら、楽譜は読めた方がいい。実際、今取っ組んでいる日本初演のオペラとか、音源自体が少ないので、目の前にある楽譜以外にとっかかりがない。その楽譜から自分が読み取れるもので勝負しよう、と思った時に、そこに書かれている音符を見て頭の中に音が鳴らない、というのはものすごくハンデになっている。
特に、今回のオペラで私に割り当てられた役では、私の歌の旋律をきっかけにして和音が変化していったり、転調のきっかけを私の歌が導いたりする箇所が多い。恐らく初演の時に、私の役を演じたバス歌手の音感が非常によかったんだろうね、とみんなで言い合っていて、みんなで私の方を気の毒そうに眺める。同情するなら音をくれ。ネタがちょっと古いな。
「楽譜が読めないオレ」というのを誇りにしたり、自慢にしたりする心理、というのは、芸術の世界における、「無学の天才」という神話に依拠する部分もあるのかも、と思います。時代の権威に裏付けられた正当な教育を経ずに生まれてきた天才が、新しい価値を世界にもたらす。既存の秩序やパラダイムに対する挑戦者は、どんな世の中でも、どんなジャンルでも喝采を浴びやすい。チャップリンだって正規の音楽教育を受けていなかったけど、素晴らしいメロディーを生み出したり、即興演奏をすることができたよね、なんて言われたり。
でもね、逆に言えば、もしチャップリンの才能があって、そこに正規の音楽知識が加わっていたら、もっと素晴らしい楽曲が産まれたかも、と思うんです。少し前に、GAGプロデュース公演で取り上げた英米歌曲で、やはり正規の音楽教育を受けていなかった1920年代の売れっ子作曲者達の大衆歌と比べて、ガーシュインの楽曲の完成度の高さに驚愕したことがある。基礎力が身についている本物の凄さ、というか。私の場合にはもっとレベルが低くて、自分が楽譜が読めないことへの言い訳というか、開き直りをしていた向きもあるな。「楽譜なんて読めなくっても歌えるわい」みたいな感じで。
楽典の知識がないと難しい「作曲」とか、調性の知識がないと操作が難しいことの多い「器楽演奏」と違い、単音の旋律を声帯の振動と肉体の共鳴で聞かせていく「歌唱」という表現技法においては、楽譜を読む力に依存しない部分が大きいのは確かだと思う。そして実際、楽譜以外の情報から音楽の本質をとらえることができる「無学の天才歌手」というのもたくさんいると思うし、日本で活躍している歌手の中には、そういう素晴らしい人たちもたくさんいると思います。でも、そこまでの才能に恵まれていない私程度の歌い手にとって、和声や調性に関する基礎知識があるのとないのとでは、旋律を紡いでいく歌唱技術に確実に差が生じてしまう。音感に基づいた調性への感受性がないと、音楽が紡いでいくドラマへの感性が浅くなってしまう。歌い手の上手い下手、というのをまず分けるのは、音程の確かさだ、というのは絶対的な第一ハードル。まずそこをクリアしないと先に進めないし、楽譜が読める、というのは、確かな音程を生み出すための大事な基礎技術だったりする。
要するに、さほど才能がない人間は、ちゃんと基礎を勉強する、という努力をしないとダメなんだよ、逆に言えば、基礎を学ぶことは、才能のない人間でも音楽の高みを垣間見ることができる道具を身に着けることなんだよ、という、ある意味当たり前の真実なんですよね。もっと若いうちにちゃんと楽譜の読み方を勉強しておけばよかった、と激しく後悔しながら、この年になって、「トニイホロ」「ヘロホイニ」なんてぶつぶつ指を折りながら楽譜とにらめっこしてるんですが、いくらやってもこの年じゃあ、付け焼刃がボロボロ欠けてしまって身に着かないわけですよ。そして周囲からは憐みの目が注がれる。同情するなら音をくれっての。ここはお前のソロだから誰も助けちゃくれないっての。あううう。