快適という麻薬

巷を騒がす「クール・ビズ」、私の勤務する会社でも導入されました。「ノーネクタイ、ノー上着」の上に、空調の温度を28度以下にしない、という話。でも、どうも私の勤務しているフロアは、こっそり空調の温度を28度以下にしている様子がある。そんなに暑くないんです。とすると、空調の温度は元のままで、ノーネクタイで過ごせるようになっただけ。快適さが増しただけ。全然ダメじゃん。

快適さ、というのは麻薬だと思います。自分の子供の頃、クーラーなんかなくて、夏は暑くて、扇風機や団扇でなんとか過ごす、というのが当たり前でした。打ち水とか、風鈴とか、縁側のカキ氷とか、自然と家との境界線の所で、夏らしい精一杯の快適さを工夫していた。

クーラーの出現で、家は自然=外界から、ひたすら自分を遮断するようになりました。家の中はすごく快適になったけど、その代わり、外界はものすごく不快な場所になっちゃった。でも、人間、一度手にした快適さ、というのはもう手放せないんですね。麻薬と一緒。一度、クーラーのある生活に慣れてしまうと、28度なんていう温度でさえ耐えられない。会議室でのイライラが募り、議論が進まない。仕事の効率が悪くなる。麻薬の禁断症状そっくり。

アメリカ人は、どの場所に行ってもアメリカ的生活スタイルを維持しようとする、と揶揄されることがありますよね。どんな場所に行ってもスポーツジムがあり、ハンバーガーがあり、ジョギングをする。ベトナム戦争中、戦地にハンバーガーのレタスを新鮮な状態で輸送するためにものすごく苦労した、なんて話があったっけ。世界が全てアメリカになったら、という本があるらしくて、石油資源は7年で枯渇するそうです。でも、アメリカ人はそういうライフスタイルを捨てられない。快適だからです。一度手にした快適さから逃れられない。

気温だけじゃなく、蛇口をひねれば綺麗な水が出てくる、とか、街のいたるところにコンビニがあって、困ればそこに駆け込めばなんとかなる、とか。そういう快適さ=便利さ、というのは、一度獲得してしまえば二度と逃れられないもの。先日、この日記に書いた、「かなちゃんのせんたくき」という話は、我が家の実話を創作童話風に仕立てたものでしたけど、洗濯機を買い換えたい、という女房が言うには、「水を沢山使う縦型洗濯機の方が、節水型のドラム式洗濯機よりもきれいに仕上がる」んだって。実際、洗濯機が壊れていた間、近所のコインランドリーの縦型洗濯機で洗った衣類の方が、家のドラム式よりきれいに仕上がってる。でも、きれいな服を着たいから、水を沢山使うっていうのは、環境を犠牲にして快適さを買ってないか?

「ドラム式できれいにしようと思ったら、色んな漂白剤とかを大量に入れる。水が少なくても、環境は余計に汚れるでしょうが」というのが女房の言い分。なるほど、それも正しい。まぁ、そもそも、きれいな服を着る、というのも、快適さ=麻薬なのかもしれない。これだけ便利で快適になった人間の生活。言い換えるなら、快適さという麻薬漬けになっている現代人。そしてその麻薬は、着実に環境を蝕み、人間自身も蝕んでいる。空調が整備されすぎているために、自分で体温調整ができない子供が増えている、なんていう話も聞きます。

関東大震災が起こったら、快適さという麻薬が一瞬にして消滅する。快適さは決して、自然に存在するものじゃない。そんな当たり前のことを、時々思い出す必要がある、という点では、「クール・ビズ」運動、多少は意味がある気がしています。