あーあな一日〜モノへの愛情〜

昨日、我が家では大変なことになっていたようです。娘の同級生が遊びに来ていて、母親達は幼稚園のイベントの話し合いで家にいて、子供達は外で遊んでいた。そしたら、隣のおばあさまに、

おたくの娘さんとお友達が、うちの塀の上からおたくの車の屋根に上ってますが・・・」

と声をかけられて、大慌てで飛び出してみれば、言われた通り。娘は大目玉を食らいました。発表会を前に出かけたピアノの教室では、楽譜を忘れてしまった。大目玉の後遺症も引きずっていたのでしょう、ショックが重なったらしく、全然ピアノを弾かずにぎゃーぎゃー大泣きしてしまったそうです。女房は「私が泣きたかったわよ」とげんなり。帰宅したパパにも大目玉を食らって、大泣きしながら、「悪いxx(娘の名前)が出てこないように、頑張って野菜を食べて、お腹に鍵をかける」と約束しました。野菜?

あーあ、という気分は続いていて、今朝見てみたら、車の屋根がへこんでいる。そんなに目立つもんじゃないんですが、かなりがっくりです。

我が家は、女房の趣味もあるのですが、家の中に色んな飾りものがあります。娘や家族の写真を飾ったり、友人からもらったヨーロッパ製の飾り物とか。そういう飾り物だけじゃなくて、色んな家具なんかも、女房がカタログを眺めたり、複数の家具屋さんを巡って厳選して見つけてみたもの。だから、女房は、それぞれのモノたちに、すごく愛着があるんですね。先日、ダイニングの椅子の皮の部分に、会社のコピー書類のトナーがこびりついてしまって汚れちゃった時には、私が女房に大目玉をくらいました。

モノに愛着があるから、子供にも、「それ触っちゃだめ!」とか、「大事に使いなさい」という言葉をしょっちゅう言います。でも、娘の同級生の子供達からすると、そういう飾り物とかが珍しいから、ついつい触っちゃう。そのたびに、女房はハラハラするそうです。

最近の子供に、モノの大切さや、モノを大事に使う、ということを教えるのは難しいなぁ、と思います。壊れてしまえば買いなおせばいい。車だって、傷つけば直せばいいし、直らなきゃ買い換えればいい。色んなモノが交換可能になってしまっている。その一つ一つのモノが、壊れてしまえばもう二度と戻ってこないものなんだ、ということ。そういう意味では、昨日も書きましたけど、モノとの関係、というのも本当は、「一期一会」のはず。そのはずなんですが、そういう感覚を実感しにくいくらいに、「便利」な世の中なんですね。

でも、モノに愛情を持てない人間に、モノを作ることなんかできないと思うのです。日本がモノ作り大国になった背景には、モノが極端になかった時代を経た人々が持っていた、モノに対するこだわりや愛着があったはず。江戸の頃、どの町内にも「鋳掛屋」さんが巡回して回っていて、穴の開いた鍋だの釜だのを修理してまわっていたそうです。そうやって、一つのものを大事に大事に使っていた。「鋳掛屋さん」なんて、もう完全に職業として滅亡してしまっているよねぇ。

捨てることを前提に大量生産される色んなモノたちに囲まれた子供に、どうやって、モノへの愛情を教えるか。「幼稚園に連れて行ってくれたり、色んなところに連れて行ってくれて、一生懸命働いてる車さんが、痛い痛いって泣いちゃったよ」なんて、娘を叱りつけながら、便利さの裏側でどんどん荒廃していくこの国の精神世界について考えてしまいました。