一期一会ということ

一期一会、という言葉が好きです。茶道から出てきた言葉だそうですね。茶室で、主客が相対する時間において、「次があるとは思うな」という緊張感。これが生涯において一度きりの邂逅であり、一度きりの二人の時間である、という感覚。その感覚を持つと、もてなしの時間は真剣勝負になる。

そういう茶道の「真剣勝負」という側面を見事に切り取った映画が、「千利休 本覚坊違文」という映画でした。戦国時代、まさに死地に赴こうとする武将たちに、利休が茶を振舞うシーン。茶は今生の別れを告げる儀式であり、二度と会えない友に対する精一杯の最期のもてなしである。そんな緊張感と覚悟に満ちた、静謐で雄弁な時間。熊井啓監督の傑作です。

以前、舞台というのはまさに一期一会なのだ、ということを書きました。舞台における一期一会の感覚、というのは、様々な側面で現われてきます。役者と演目、という関係における、一期一会。ガレリア座の公演は1日きり。同じ演目の再演、というのは過去ありません。よしんば、同じ演目の再演が行われたとしても、5年前の舞台を演じる自分と、現在の自分では、歌い方、演じ方は全く異なってきます。そういう意味で、自分が演じる役、歌う歌と、自分自身の邂逅、というのも、まさしく本番当日だけに与えられた一期一会の機会なのです。

共に演じる仲間との共演、という部分でも、一期一会。全く同じメンバーで全く同じ演目を全く同じように上演すること、というのは、ガレリア座のようなアマチュア団体では事実上不可能です。メンバーは常に入れ替わっているし、配役だって変わっていきます。そのメンバーでの舞台がいかに居心地よかったとしても、二度目はない。決してない。

そして何よりも、その場にご来場くださったお客様との一期一会。繰り返し鑑賞できるビデオや映画以上に、舞台という「ライブ」においては、その一瞬一瞬が二度と繰り返せない瞬間です。お客様はその舞台を1度しか見ない。その1度のために、重ねてきた練習の成果を凝縮して、精一杯お客様に楽しんでいただく。もう二度と、その舞台を繰り返すことはできないのだから。

こんな一期一会の思い、というのは、舞台を作るたびに実感すること。でも、尼崎の列車事故のニュースを見ながら、昨夜、女房がぽつりと、「朝、行ってらっしゃい、と言ったら、それっきり会えないかもしれない、と思うと、怖いよねぇ」と呟きました。そうだよねぇ。日常生活だって、一期一会なんだ。会社に出かけるこちらの方も、会社で仕事をしているうちに、家族がトラブルに巻き込まれるかも、という可能性におびえることがあります。不慮の事故、というのは、いつ襲ってくるか分からない運命の鎌だから。

今日は世界最期の日だと思って精一杯生きよう、とか、そういう教訓的なセリフを並べるつもりはありませんし、そんなに達観して生きていけるわけでもない。明日も今日と同様の日々が続くのだ、と、人間誰しも思ってしまうもの。大きな事故があるたびに、そういう自分の平穏な生き方に冷水を浴びせられたような気持ちになります。そのたびに、「一期一会」という言葉が浮かんできます。事故の記憶が薄れ、また平穏な日常が当たり前になってきても、この感覚は心理の底に冷たく淀み続けるんでしょうね。