「学校は楽しい」

今朝の、通学途中の娘との会話。
 
「あぁ、やだなぁ」と娘。
「どうして?」と私。
 
「今日はね、休み時間が全然ないんだよ。」
「どうして?」
「2時間目が音楽でね、音楽教室に行かないといけないから、休み時間がないの。音楽のあとは、美術だから、美術教室に行かないといけないから、休み時間なしでしょ。美術は2時間連続だから・・・で、終わったらもう、お昼休みなんだよ。」
 
さらにしばらく歩いていると、
「今日は、いいお米がとれるかなぁ」と突然、娘が言う。
「お米?」と私。
 
「ひみつきちでね、ご飯を作るんだよ」
 
ひみつきち、というのは、学校の校庭の隅っこで、1年生の女の子たちが遊ぶ定位置があるらしい、そこのことです。
 
「白い砂がお砂糖で、普通の砂がご飯なの。黒い土はチョコレートで、石がガスレンジなの。」
「ガスレンジもあるのか。」
「木の枝のガスレンジなの。Kちゃんと一緒に、よくホットチョコレートを作るんだよ。」
 
他愛ない会話だなぁ、とは思うんですが、娘は小学校に行くのが本当に楽しいらしくって、そこでの色んな生活を、こんな感じでにこにこと報告してくれます。そんな話を女房としていると、

「ここが自分の場所だ、っていう安心感があるんだろうねぇ」

という話になる。

「私はあんまり小学校が楽しくなかったんだけど、児童合唱団に入って、そこが本当に楽しかったんだよね。ここが自分の場所だ、っていう感覚があった。そういう場所があったから、小学校に行って、あんまり楽しくないなぁ、と思っても、さほど苦痛ではなかった。」

小学校で集団生活を学べ、という。でも、小学校という場所は、色んな子供たちが集まっている場所だから、どこかで無理をしないといけないかもしれない。決定的に肌が合わないかもしれない。そういう時に、何かしら共通の基盤や目的を持っている別の集団に帰属していること、というのは、一つの強みになる。

女房が見ている子供たちの中には、小学校の中でも自分の場所が見つけられず、かといって、それ以外の集団に帰属意識を持っているわけでもない子供が結構いるそうです。中には、「私は他の子供たちとは違うんだ」ということをあえて強調して、他の子供と交わろうとしない子供もいるそうな。

先日、女房が、そういう子供を持つお母さんの一人と話していた。そのお母さん自身も、「うちの子供は学校になじめなくて・・・」と言っていて、子供が浮いている現状には気づいている。気づいているんだけど、だからといって、学校になじめない自分の子供が問題だ、と思っていない。学校の他の子供の方に問題がある、と思っている。

「お洋服とかも、他のお子さんは、ちょっとうちの子は違うんですよ。他のお子さんは、ユニクロとか着てますからねぇ」

とおっしゃって、女房は目を白黒させたそうな。ユニクロの何が悪いんだ?

要するに、自分の子供は、他の子供みたいに、ユニクロの画一的な洋服を着たいと思う子供じゃないんだ、自分の好みをきちんと主張できる、「特別な子」なんだ、という気持ちがあるらしい。でもそこにはどこかで、他の子供を見下したような、うちの子は特別なのよ、認めなさいよ、と言いたげな、傲慢な心理が見え隠れする。しかもその子が着ているお洋服っていうのが、はっとするほど素敵だったり、とてもお洒落な着こなしをしている、というわけじゃなくって、割と普通の、たれらんとしたワンピースだったりするんだって。ううむ。

自分の子供は他の子供とは違う、と思うのは全然問題ないし、逆に、違わない方がおかしいんです。みんな違う人間なんですから。でもそこに、「うちの子は他の子供より優れている」という、一種の選民意識のようなものが加わってくると、なんだか妙な軋みが生まれてくる。実際にぬきんでて優れた子供さんならまだ救いもあるけど、別に普通のお子さんなのに、選民意識だけが先行してしまうと、これは悲惨なことになります。

誰もその子のことを受け入れてくれない。周囲が一目置くほど優れているわけでもない。でも、「私は特別」という選民意識だけは持っている。こういう子供は、イジメの標的になりやすいと思うんだよねぇ。よく言われる話だけど、イジメる側はもちろん問題だけど、イジメられる方に問題があるケースだって、結構あると思うんだよなぁ。

小学校時代というのは、集団生活を学ぶ大事な時期だけど、小学校がそれにふさわしい場所であるか、というと、必ずしもしっくりこない子供さんだっているかもしれない。もしそうなら、親がやるべきことは、子供が集団生活を学べる環境を、別に用意してあげること。子供が周囲から浮いているかも、と思うのだったら、その子供に合った環境や集団を、きちんと用意してあげて、そこに帰属意識を持たせるように工夫してあげること。家庭以外に、「ここにも私の場所がある」と思える場所を作ってあげること。

家族と、DSみたいな仮想現実だけが拠り所になっている子供が結構増えている気がする一方で、「学校が楽しい」と言ってくれる娘を持っている、というのは、すごく幸せなことなんだろうな、と思います。逆に、将来、娘の中で何か波長がずれてきて、「学校が楽しくないなぁ」と思い始めることがあるかもしれない。そういうときに、現実世界に対するインターフェースを保ちながら、きちんと帰属意識を持てる場所を用意してあげられるか、というのも、親として常に覚悟しておかないといけないことなんでしょうね。