私のマンガ人生 そのさん 〜吉田秋生・やまだ紫〜

今日は、先日から書き継いでいる、好きなマンガ家の続きです。今日は、吉田秋生さんとやまだ紫さんのこと。

吉田秋生さんは、初めて買った少女マンガ雑誌別冊少女コミック」で、衝撃を受けた作家でした。別に何と言うことはない、軽いボーイ・ミーツ・ガールの甘い短編ばかりが掲載されている雑誌の中で、吉田秋生さんの「はるかな天使たちの群れ」という中篇が掲載されており、これが素晴らしい作品だったんです。お名前も中性的ですし、題材も、トレンディ・ドラマの流行を予告しているかのような、大学生の男女の恋愛模様を、「男性の目で」見た作品。最初、「この人は女性なの?男性なの?」と随分混乱しました。さらに、TBSの名物ディレクター吉田秋生さん(この方は男性)と混同するに至って、この方の正体がさらに謎めいてくる。FMラジオのゲストで出たり、実際にはトレンディー系の美女だ、という情報を得るに至って、やっと落ち着きました。

初期短編集のあとがきか何かに、「私は少女マンガ界の異邦人なのだ」と書かれていたことがありました。確かに、今のように、少女マンガと少年マンガの境目がない時代ではなく、ある程度線が引かれていた時代でしたから、独特の乾いた絵柄とリアルなストーリは、少女マンガの世界では異質ではありました。当時、あだち充とか、弓月光のように、少女マンガと少年マンガの境界線で活躍する作家が増えていましたから、その一人、という位置づけにもなるのかもしれません。

傑作、「カリフォルニア物語」は、優れた長編小説が持つ神話性のようなものさえ感じさせる作品で、擦り切れるほど読んだ作品です。でも「吉祥天女」は、当時流行ってた大友克洋の絵柄とストーリに悪い影響を受けて、かなり尻つぼみになっちゃった。その後の長編は全然フォローしていないのですけど、「BANANA FISH」とか「YASHA」とか、面白い作品を次々発表されているようですね。「河よりも長くゆるやかに」も好きでした。

この方の中短編、というのも実に素敵で、連作集という体裁になっている「櫻の園」は傑作です。映画にもなりましたが、ああ、やっぱり吉田秋生さんという方は女性だったんだなぁ、と実感する。非常に生々しい「セイブツ」としての女性、少女、というものの描き方が実にリアルで、そのくせ美しい。他にも、スポーツ漫画の傑作「解放の呪文」、詩情あふれる高校生友情もの「ジュリエットの海」など、中短編にも傑作が多いです。

吉田さんの魅力は、乾いた絵柄で、これしかない、というカットとネームで登場人物の心理をくっきり切り取る、その鮮やかさ。どこか、高野文子の漫画に通じるような、切れ味の鋭さが魅力です。

やまだ紫さんは、「しんきらり」という漫画が何かの賞をとった、というので読んでみたら、これが素晴らしかったので、一時期追いかけたんですね。そんなに作品の多い人ではないですが、どの作品も、ぎょっとするほど怖いです。怖さってのは2つの怖さ。この日記でも以前取り上げたことがある、「女性の身体性」がすごく生々しく見えること。生の女の体が覆いかぶさってくるような、そんな怖さ、生臭さがある。もう一つの怖さは、その女性の目が、薄っぺらい男性の全部を見通して、自分も含めた世界全体を見通して、恐ろしく冷め切っていること。

しんきらり」という漫画は、次のようなモノローグで終わります。

長い、長い・・・夢の中にいた、あの人にめぐりあって6年・・・結婚して10年、あわせて16年”もの夢・・・・わたし自分を、無欲な平和な女だと思っていた。結婚生活に過大な期待をもたず、ただ平和な日々がおくれたらと、ささやかな・・・・夫婦が長く平和に・・・・という望みは「ささやかな」望みなんかじゃなかった・・・・こんなに激しい夢って無かったんだ・・・・夢からさめて、どうしましょうね、わたしたち・・・・

このモノローグが恐ろしい、と思うのは、平和な夫婦生活を守ることが、激しい夢である、という真実の恐ろしさもさることながら、その真実に気づいているのが、妻だけである、ということ。妻が心の中でこんな恐ろしいモノローグを呟いている間、夫はただ日溜りでぼおっとしたりしているのです。「しんきらり」は、大学時代に読んだのですが、自分の結婚観が随分変わった気がする。他にも、「ゆらりうす色」の男女のあり方とかも結構好きでした。この方のファンタジー短編も、なかなか面白いです。

やまださんの魅力も、その極めて単純化された絵柄ですね。どっちかというとヘタウマ系の絵なんですが、全体の線が柔らかく、風か水のような、自然な流れを感じます。この流れの中でゆらゆらと漂う女性が、時々修羅のような視線とセリフをこちらに投げてくる。これは怖いです。