「神の子どもたちはみな踊る」〜世界観の転換〜


1995年1月におこった神戸の震災という出来事で、自分の世界観は確実に変貌しました。でも、それがどう変貌したのか、ということを表現するのはとても難しいこと。足元で確固としていてゆるぎない大地が突然崩れ落ちる、という恐怖感、なんていうのは、陳腐な言葉にすぎない。そういう陳腐な言葉では表現しえない、何かしら、漠然とした、でも確固たる変化。

神戸の震災と、それに続く地下鉄サリン事件によって、日本の戦後の精神世界は、確実に変貌した。それは確かだと思います。では、どう変貌したのか。一言で言うのは本当に難しいこと。あえて言うなら、終末とは、概念的な未来ではなく、現在のすぐ隣に大きな口を開けて待っている巨大な空虚なのだ、という実感。その空虚な箱から、いつ血まみれの腕が伸びてきて、我々を引きずり込むか分からない。その血まみれの肌の冷たさや、空虚な箱から流れ出す風の生暖かさ、あるいは燃え盛る炎の熱さが、あの神戸の震災と、地下鉄サリン事件によって、形のある実在として、生々しい現実として、戦後の日本人に初めて認識された。

それまでの日本人の終末観は、ノストラダムスの大予言や、1999年問題のような、概念的・観念的なもので、決して現実社会にでんとして存在しているものじゃなかった。震災後にお会いした、私の母校、灘高の先生は、「あれは地獄です」と言い切ってらっしゃいました。神戸とサリン事件は、「地獄は死者のために存在している空想世界ではない。現実世界が一瞬で地獄に変貌するのだ」ということを我々に明確に示したのです。太平洋戦争以降、初めて具象として現われた地獄。地獄を空想することと、実在する地獄を見せ付けられることは、根本的に違う。

あの神戸の地獄を見た人間は、確実にその精神世界に何らかの影響を受けている。その言葉にしがたい影響をなんとか言葉にしようとする、様々な試みがあったと思います。私自身、神戸の震災に仮託して、ガレリア座の「王子メトゥザレム」の台本を書きました。(「王子メトゥザレム」の公演パンフレットに寄せた私の文章には、明確に、神戸の震災への思いが記述されています。)

村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」が、神戸の震災を題材にしている、という話は以前から聞いていました。今回、村上春樹さんの作品をもう一度読み進めてみよう、と思ったとき、この短編集を手にしたのは、図書館にこの本しか置いてなかったから、という消極的な理由が最大の理由。でも、これは最高の偶然だったと思います。神戸の震災という、日本人の精神世界における言葉にしがたい巨大な転換点を、鮮やかな言葉で見事に切り取ってみせた、まさに傑作短編集。

「UFOが釧路に降りる」「アイロンのある風景」「神の子どもたちはみな踊る」「タイランド」「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。収められた6つの短編のタイトルを並べただけで、その日本語の見事さに感服。村上春樹という人は、非常に優れたコピーライターだと昔から思うのですが、作品のタイトルが本当に素晴らしい。そして、これらの6つの暗喩に充ちた物語のそれぞれが、神戸の震災によって微妙に変貌した普通の日本人の心理の底を、見事に表現しているのです。

それぞれの短編の暗喩するところについては、色んな人の解釈があると思います。そういう多層的な解釈を可能にする物語たち。私の解釈を以下に並べてみますが、こんな短い文章で語れるような柔な物語たちでは決してないこと、未読の方は是非ご了解ください。全ての物語は、神戸の地震によって、登場人物たちが、今まで気付かなかった自分の心理の中にあるものに気付く、という点で共通している。「UFOが釧路に降りる」:自分のそばで口をあけている巨大な暴力を実感すること。「アイロンのある風景」:からっぽだと思っていた自分自身の中で、実は焚き火の炎のように赤々と燃え盛っている「生きる力」のこと。「神の子どもたちはみな踊る」:宗教、あるいは奇跡、に対する信仰心の復活。「タイランド」:自分の中にある醜悪な感情と、それを癒すための祈りについて。「かえるくん、東京を救う」:妖怪、あるいは土霊のような、自分達の知らないところで自分達を守ってくれる精霊たちのこと。彼らは決して、人には気付かれない。

最後の書き下ろし短編「蜂蜜パイ」は、神戸の震災が、村上春樹、という作家の小説に対する意識を明確に変えたのだ、ということをアピールしながら、現実世界で、か弱いもの達をひねりつぶそうとする邪悪な力に対して、小説という武器によって対抗していくのだ、そのために、小説を書き続けるのだ、という作家自身の宣言文のような、力強い短編です。このラストの数行のために、この本の他の物語があったと思わせる感動的なラストシーン。最後の1ページを電車の中で読んで、涙をこらえるのに苦労しました。

地獄はある。現実にある。邪悪な力は、か弱いものたち、守りたい者たちを踏み潰そうと、我々のすぐそばで血まみれの口を大きく開けている。そういう邪悪な力に対して、我々のできる精一杯のことはなんだ。この愛する人たちを守るために、できることはなんだ。

図書館で本を借りる、というのは、経済的な理由や、満杯になってしまった家の本棚にこれ以上本を増やせない、という物理的な理由から。でもこの本だけは、文庫本でいいから、家に一冊置いておきたい。そして時々読み返したい。そして、最後の3行を読めば、必ず溢れる涙と一緒に、前進していく勇気が体中に充ちてくる。生きていく希望、とはあえて言わないけれど、生きていく力を与えてくれる。久しぶりに出会った、本当に愛蔵本にしたい本です。