インフルエンザ & 処理可能な情報量

今日になって、女房も娘も、インフルエンザにかかっていることが判明。我が家で残っているのは私だけ。週末はガレリア座の合宿なので、とにかく私だけでも感染しないようにしないと。

女房が言っていたのですが、「インフルエンザは伝染病で、風邪とは根本的に違う病気だ」とのこと。私もそういう認識があんまりなかった。インフルエンザ=ひどい風邪、くらいの感覚でしかなかったのですが、「大間違い」らしい。

伝染病だから、保菌者は外出を極力控えないと、他の人にどんどん広がっていっちゃう。結核とまではいかないけど、外への感染、ということもちゃんと考えないといけない。そう思うと、毎朝の通勤電車とか、怖いよねぇ。

というわけで、女房も娘も、週末のガレリア座の合宿はお休みです。娘は合宿に行くのを随分楽しみにしていたんだけどね。でも、他の人に伝染しちゃったら大変。私も、ちょっと気管支炎のような症状が出ているから、早めに病院に行こう。一応、先週末に予防接種はしたけど、効力が出るまでに1週間くらいかかるっていうからなぁ。

さて、今日ちょっと取り上げたいテーマは、情報量のこと。

仕事がかなり溜まっていて、メールを処理しきれないでいたら、どんどん受信メールが溜まっていきます。同じような現象は家でも起こっていて、見たい番組や映画を録画していたら、どんどんハードディスクに溜まっていく。仕方ないから、見る前に、DVDにダビング。そうすると、見もしない映像ソフトが大量に溜まっていく。

映画1本をきちんと見ようと思ったら、大体2時間くらいは、TVの前に座っていないといけない。それだけの時間が取れない。メールを読むのもそう。情報を処理するためには時間が必要なのだけど、その時間が取れない。

昔、「カノッサの屈辱」という深夜番組があって、その中で、「子供のおもちゃの歴史」が取り上げられた回がありました。子供のおもちゃの歴史は、子供の時間をいかにおもちゃに捧げさせるか、というマーケティングの歴史である、と喝破した回。でも、昔は無限にあるように見えた子供の時間さえ、塾・習い事・各種のゲームによって消費しつくされている。最近の小学生の一日は多忙そのもの、と聞きます。

つまり、「時間」というもの自体が、有限な資源、経済学的に言えば、「財」となっているわけですよね。この「財」をいかに有効に、賢く使うか。大量に供給される情報から、自分にとって価値あるもの、有限な時間という「財」を消費するに足る情報か、ということを選別する能力が必要になる。この2時間を消費することによって、見返りに何が得られるのか。感動が得られるのか、知識が増大するのか、それを十分に吟味する必要があるけど、吟味するのにも時間が必要。だからといって、他人に吟味をまかせてしまうと、ある意味偏向した情報だけを供給されるような、全体主義的な方向に陥りかねない。

現代社会における大きなストレスの一つが、人間の処理能力を超えた情報量の供給にある気がしています。情報が大量に与えられすぎる。それを処理しきれない。処理しきれないでいると、情報から疎外されているような疎外感が、ストレスになる。情報を遮断したくてもできないことも、ストレスになる。色んなストレスの要因が、この大量の情報量にある気がする。受信ボックスに溜まったメールを機械的に処理しながら、そんなことを考えます。考えている暇があったら仕事しろっての。すみません。