声の大きなクレーマーに世の中動かされたくないよね〜

タイトルだけ見ると、ひょっとして米国大統領選挙のことを書くのか、と思われたかもしれませんけど、残念ながらハズレです。米国大統領選挙のことは、私ごときが何か論じることができるような話じゃない。結果に至るプロセスについての議論、今後どうなっていくか、という予測、色んな議論がネット上に飛び交っていて、そこにさらに新たな視座を与えるような論点を私は持っていません。まあとりあえずは様子見かな、という感じ。今日はまるで違う話で、最近、これ面白いな、と思ったネット上のコラムのことを。

私は一応スチャラカながらも一介のビジネスマンなので、日経ビジネスON LINEの会員になっていて、そこで連載されている小田嶋隆さんの「ア・ピース・オブ・警句」というコラムがちょっとお気に入り。若干オタクっぽい視点から切り取られる現代社会の病巣は、適度に時流に乗りつつも、若干古臭いモラリストの視点が一貫して保たれていて、書き手の感度の高さと良心を感じて心地よい。時々「あ、ちょっと同意しかねるかな?」と思う回もないわけじゃないんですけどね。でも、そこはかとなく漂うペーソスやユーモアのバランスもよく、各回の最後に必ず掲載されている二行程度の編集者コメントもひねりが効いていて好き。

ということで、割と頻繁に読んでいるんだけど、先日、読みながらブンブン頷いてしまったコラムがあって、それの一部をご紹介。「社内の化粧は誰に迷惑なのか?」というコラムで、某鉄道会社が、社内で化粧している女性をマナー違反だとして、「教養がない」「みっともない」と一方的に断罪する広告がネット炎上した、という話題を取り上げていました。(原文はこちらで、日経ON LINEの会員さんは全文読めます。→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/102700067/

このコラムの中で小田嶋さんは、
 
「いったいこの広告は誰に向けて発信されているのだろうか」
 
という疑問を呈し、社内で化粧する女性に対して、乗客の迷惑だからやめましょう、と啓発しようとしているのではない、と断言した上で、
 
「この広告は、むしろ、車両内で化粧をする女性に腹を立てているおっさんに向けて、『ほら、わたくしたちは、このようにちゃーんと啓発広告を打って迷惑防止キャンペーンを展開しているのですよー』ということをアピールするために制作されている。つまり、これはアリバイなのだ。」
 
と断じています。この時点で、ものすごくブンブン頷いてしまった。

こういう「アリバイ作り」のための仕事、というのが、日本という国の至るところにあって、それがものすごく社会インフラのコストを引き上げている感じがするのだね。電車の中というのはそういう過剰な「アリバイ作り」がものすごく目につく(耳につく)場所で、至る所に貼られたマナー啓発ポスターもさることながら、海外では考えられない過剰なまでの車内アナウンスの9割以上が、きちんとお知らせいたしました、ご注意申し上げました、文句言われる前に謝りました、という、「アリバイ作り」の言葉で成立している気がする。3分遅れただけで「お急ぎの所、電車の到着が遅れまして誠に申し訳ございません」を何十回と繰り返し、他の路線の遅延状況、事細かな乗り換え路線のご案内、空調の設定、ヘッドホンの音漏れ、携帯電話のマナーモード設定、具合の悪くなったお客様の扱い方から、傘の忘れ物の注意まで、懇切丁寧にご指示・ご指導くださる。もちろんこういう情報の過剰さが、日本のインフラサービスの品質を維持している通奏低音になっているのも事実で、それを一種の芸にまで高めているような名調子に出会って嬉しくなることもあるんだけどさ。

さらに小田嶋さんは、社内で化粧している人を見て、近年のマナーの低下を嘆く、という種類の論調は多いけど、実際の所、最近の日本人は昔に比べてずっとお行儀がよいと思う、という趣旨のことを書かれた上で、

「昭和の日本に比べて現在の社会でイヤな感じになっているのは、むしろ、『マナー違反に対する寛大さが失われている点』だと思う。」
「(マナー広告が増えている理由は)われわれの『他人のマナーへの許容度』が低下しているからだ。」と論を進めていきます。そして、
 
「鉄道会社は、もっぱらクレーマーの目線に配慮した姿勢でマナー広告を制作している」
「これは、彼らがクレーマーにコントロールされているということでもある」
「落ち着いて考えてみれば、駅員という『決して反論できない人間』に詰め寄るクレーマーは、人間としては明らかな卑怯者である。その卑怯者に鉄道会社が迎合することは、結果として、一般の乗客をスポイルしてしまうことになる。そのあたりの出入りについて、一度真剣に考えてみるべきなのではなかろうか。」
 
と書き連ねていきます。もうこのあたりで、私の首は、ばね仕掛けの人形のようにブンブン前後に振れるわけです。時々、今の世の中を動かしているのは、大きな声で文句だけ言って何もしない(できない)連中なんじゃないか、と思うことがあったんだけど、それを「クレーマーにコントロールされている」という言葉で端的に表現してくれた爽快感。

えー、なんでそんなことになっちゃうの、文句言ってるのは一握りの声の大きいやつだけなんじゃないの?と思うことって、色んな局面であって、そのクレーマーを黙らせるために、事務能力の高い人の貴重な時間が長時間占有され、意味のない「アリバイ作り」の仕事が大量に発生し、モチベーションが下がり、長時間労働やメンタルや過労死の原因にもなってないか?とまで思ってしまう。

とにかく穏便に済ませたい「事なかれ主義」というのが、ただでさえ社会全体のコストを押し上げがちな日本社会において、ネットという格好の表現手段を持った匿名のクレーマー達が、決して多数の幸福には結び付かない方向へと社会を動かしていく。そういうクレーマー達に脅かされた経験が、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」式で、企業の行動を縛り、いまだ表面化していない幻のクレーマーまで想定した過剰防衛に走らせる。「決して反論できない」駅員に詰め寄るクレーマーと、ネット上で匿名性に守られて攻撃を重ねるクレーマーは、小田嶋さんの言う「卑怯者」に違いないのだけど、それなりに社会を動かせる力を持ってしまっている。

もちろん、ネットには違う力もあって、そういうクレーマーを断罪する声、攻撃されている人を擁護したりする声もある。批判するだけじゃなくて、賞賛したり、評価する声が大きなトレンドになって、社会を動かしていくこともあると思う。でも、現状を批判することがカッコイイ、と思っている人も多いから、ネガティブなエネルギーが一方向に集中することの方が多い気がするんだよね。しかも、声の大きなクレーマーって、クレームを言うこと自体が目的化していることも多いから、本当に厄介。いちいち反論していると、こちらがどんどん疲弊する一方で、クレーマーはクレームを言うことで自己実現を達成して、ますますパワーアップしていく。もうしんどいから言うこと聞いた方が楽、と思っちゃうのはすごく分かるんだけどさ。そういう人たちに牛耳られる世の中にはしたくないよねぇ。なんとかならないもんだろうか。

小田嶋さんのこのコラムの中には、「人の迷惑になること」を徹底的に排除しようとする非寛容さとその危険性についても少し触れている部分があって、そこも突っ込んでいくと深い話になるなぁ、と思います。「人の迷惑になること」をひたすら排除していくと、理想的な通勤電車の中というのは、全員が声も立てず、息もせず、もっとも効率的な直立姿勢で、隙間なくびっしりと立ち並んで、無表情に運搬されていく状態。できれば背格好もほぼ同じであるべき。老人、子供、妊婦、ましてやベビーカーなんてもってのほか。体臭のきつい人、汗かきの人も排除。要するに、出荷される野菜や果物みたいなもので、少しでも形がいびつだったり、規格外のものは廃棄されるのが一番効率的なんだね。そういう理想の状態を実現するべきだ、と大きな声でわめいているクレーマーの声に唯々諾々と従って、マナー広告や社内放送でがんじがらめに縛られた同じ形をした人間たちが、無表情に直立不動で野菜みたいに運搬されていく通勤電車を想像してみよう。それが僕らが向かっているディストピア