自分のお葬式でかけてほしい曲は?〜レクイエム論その2〜

大田文化の森合唱団の演奏会で、モーツァルトの「レクイエム」全曲演奏が行われました。演奏の前に、今回のスマトラ沖地震の被災者に対し、黙祷を捧げました。レクイエムというのは、死者に捧げる曲ですから、ある意味自然なこと。でも、ふっと思った。「自分の葬式に、モーツァルトのレクイエムはかけてほしくないなぁ」

「レコルダーレ」あたりの透明なハーモニーや、「ホスティアス」なんかは美しくていいんですが、冒頭の「レクイエム」とか、「キリエ」のフーガなんかを自分のお葬式でかけられた日にゃ、なんか棺から起き上がってきそうな気がする。この日記を書き始めたばっかりのときに、自分の知っている色んなレクイエムの感想を書いたことがありましたよね。その時にも書いたと思うのですが、

モーツァルトのレクイエムは、モーツァルト自身の死に対する恐怖や不安が書かれている」

と思うのです。旋律の全てに、死を目前にした人の恐怖や不安、絶望、神にすがる気持ちが書かれている。

でも、お葬式というのは、あくまで生者のためのセレモニーなんですよね。死者を悼み、死者の死後の安寧と、自分の平穏な死を祈るセレモニー。そこで、「死ぬのは怖いよー」という音楽が流れる、というのは、どうもしっくりこない。だから、「モーツァルトのレクイエム」は、いつ聴いても、「追悼の音楽」という感じがしないんです。

その話を、指揮をされた山口俊彦先生にしたら、先生は、「作曲者の年齢もあるのかもしれないね」とおっしゃっていました。「ヴェルディがレクイエムを書いた時には、もう相当の年齢だった。だから、ヴェルディのレクイエムには、成熟した宗教観・人生観が盛り込まれているよね。でも、モーツァルトはまだ若かった。死ということについて、客観的に見られる年齢ではなかったんじゃないかなぁ」。なるほどなぁ。確かに、「ヴェルディのレクイエム」は、死者を前にした生者たちのセレモニーにふさわしい音楽、という気がする。だから、先日の大田オペラ合唱団の演奏会で、「中越地震の被災者への黙祷」が演奏会の前に行われたとき、自分の中ですごくしっくりしたんです。

よく、自分のお葬式でかけてほしい曲は?という話が出ますよね。ある合唱指揮者のお葬式で、「先生はフォーレのレクイエムを自分の葬式でかけてほしいっておっしゃってた」「いや、ラッターのレクイエムでしょう」など、周囲の人々で喧々諤々の議論になり、よく考えてみると、その先生が指揮した曲ばっかりだった、という話がありました。自分で合唱団を指揮しながら、「うーん、いい曲だねぇ。僕が死んだら、この曲かけてね」って、どの曲やるときにも言ってたらしい。混乱するからね。指揮者の先生は気をつけてくださいね。

フォーレのレクイエムや、ラッターのレクイエムのような、透明感のあるサウンドが自分の葬式に流れる、というのは、素敵だなぁ、と思います。フォーレのレクイエムの「サンクトゥス」のオルガンの響きに乗って見送られるのは素敵だろうし、ラッターの「ピエ・イェズ」のソプラノソロもいいよなぁ。多分、まだ選ぶ時間は結構あると思うから、色々と今から悩んでおこう。参列する人に涙を強要するような音楽も嫌だし、場違いな音楽も困るしね。知り合いの知り合いのお葬式で、「故人が好きだった曲です」って、第九の歓喜の歌が流れて、参列者の居心地がむちゃくちゃ悪かった、という話もあったな。

今まで、お葬式で流れた曲でぽろぽろ泣いちゃったのは、なんといっても、辻正行先生のお葬式で、参列者が歌った「ほほえみ」。歌う人も、聞く人も、みんな泣いちゃった。昔、ガレリア座の仲間が、まだ30代の若さで急死した時のお葬式でも、音楽で泣かされました。本当に急なことで、ただ我々が呆然としていると、流れてきたのは、RCサクセションや軽い日本のポップスのオムニバステープでした。「故人が死ぬ前夜に、ステレオでかけて聞いていた曲」と聴いて、もうとめどなく涙が流れました。

その仲間が死んだ年齢を越えて、私ももう40歳になりました。そろそろ、自分の死ぬ時のことを考え始める時期です。いいお葬式を迎えられるように、残り時間がどれくらいかは知らないけど、その時間の間に、出来る限りの沢山の人たちに、幸せな時間を届けてあげられますように。