こだわること

表現することとこだわること、というのは表裏一体だと思うんです。どう表現するか、何を表現するか、ということに、どれだけこだわれるか。中学生の校内合唱コンクールみたいに、表現するモノの質ではなく、表現する、という行為によって得られる一体感を重視する場合も、確かにあります。そこでは、表現された作品や演奏の質よりも、表現するに至る過程が重要視される。でも、それは、パフォーマンスではない。

エンターテイメントの製作において、このこだわりが、かえって邪魔になることだって多くあります。こだわることが、表現の実現を困難にしてしまう。クロサワさんが、晩年になって、映画が撮れなくて苦しんだ、というのは典型的な例。納得できるものを作りたい、というこだわりが、予算、という現実に押しつぶされてしまう。もっとくだらない例で言えば、自分の表現の理想を実現するには、まだまだ自分がヘタだ、と、練習ばっかりに打ち込んで、一向に表現しようとしない歌い手さんが、日本にはどれほどいることか。

もちろん、ヘタのくせに表現することばっかりが先行しちゃう人も困りものだし、自分がガレリア座でやってきたこと、なんてのは、まさにそういうことだと思うんですけどね。よくある開き直りは、どうせヘタ=アマチュアなんだから、楽しくやろうよ、となっちゃうこと。表現される演奏の質を上げることよりも、表現する過程でみんなとワイワイ楽しく集まるのがいい、みたいな勘違いをすること。それじゃ、中学生の校内合唱コンクールと一緒だっての。

なんでこんなことを書いているか、というと、突然話が低俗になりますけど、昨夜、録画していた「ゴジラビオランテ」をちらちら見ていたから。駄作の多い平成ゴジラシリーズの中では、佳作の一つ、と思っていたのですが、大森一樹という人のやる気のなさ、こだわりのなさが随所に見えちゃって、なんとも期待はずれでした。要するに、手抜きのシーンが多いんだよ。いいシーンもいくつかあるんだけど、手抜きシーンで全部ぶちこわしになっちゃう。

限られた予算・時間の中で、適当に受けるエンターテイメントを作る、という点では、大森一樹さんは結構いい職人さんだと思うのです。自分は作家性の強い監督だ、と勘違いしているような気がするんですが、映画作家としては大した人じゃない。むしろ職人。でも、職人としても一級とはいえないなぁ。

同じような映画職人さんでも、深作欣司さんや舛田利雄さんのように、表現するものに対して、こだわってこだわって、もっと面白く、もっともっと楽しく、という入れ込み方をする人もいます。深作さんなんか、どう見たってスターウォーズのパロディでしかない、「宇宙からのメッセージ」を、あれだけカルトな人気のでる傑作(迷作の類かもしれんが)に仕上げてしまった。「ゴジラビオランテ」は、まだ製作期間に余裕があったせいか、多少きちんと作っている部分もありますけど、続いて製作された「ゴジラキングギドラ」は、結構ヒサンな出来。エンターテイメントとしてはちゃんと成立しているんだけどね。全編パロディで成立している映画ってのは、如何なものなのかな。

パフォーマンスにおいて、「こだわり」をなくす方向というのは、そういう意味では2通りあるんですね。アマチュアが陥りやすいのが、過程を重視して、結果の質の向上を軽視してしまう方向。プロが陥りやすいのが、仕事と割り切って、適当なところで手を抜いてしまう方向。どちらにせよ、出来上がったものはつまらない。

マチュアの心をもったプロ、というのが、一番素晴らしい、とよく言われます。自分の表現するものに対する熱い愛情を持ちながら、基礎のしっかりした、洗練された技術力で、表現する。妥協するところと、こだわるところをきちんと見極める。自分はどこにこだわるのか、表現する者として、常にそれを問われていると思わなければ。