富士山のこと

やっと晴れました!明日は延期になった娘の運動会。朝早くから場所取りに行かねば。

会社の窓からは、遠く富士山のシルエットが見えています。冬場の空気が澄み切っている日にも、駅までの通勤の途中で、多摩丘陵のかなたにくっきりと富士山が見えることがあります。なんとも晴れやかな気分になる瞬間。

先日読んだ、池澤夏樹さんの、「母なる自然のおっぱい」という本で、富士山が日本一の山だったのは、単なる偶然だろう、という話が書かれていました。竹取物語で既に一種の霊峰として位置付けられていたが、実際に数字で日本一の標高であることを確かめる術はなかったはず。富士山が数字的にも日本一の標高であることが、近代になって後追いで確かめられて、富士山は名実ともに、日本一の山となった。

では、数字の根拠があるわけじゃないのに、なぜ富士山が日本一の霊峰としてあがめられていたのか。池澤さんは、「なんといってもその形」と言います。他の山は、尾根続きののこぎり型で、いかに標高が高くても、のこぎりの歯のてっぺんを競っている感じですが、富士山はあれですからね。何と言ってもあれなわけですよ。あれねー。何が言いたいんだ。

初めて東京に出てきた頃、千葉に両親と住んでいました。東京湾を隔てて彼方に落ちる夕日に、くっきりと富士山のシルエットが切り取られているのを見て、驚愕したのを覚えています。関東平野の広さを実感すると同時に、その平野のどこからでも眺めることができるこの山の、なんという存在感。

長く住んでいた大阪にせよ、神戸にせよ、山はもっと身近なものでした。すぐ見上げれば山並みが見え、学校の窓から生駒山系を眺める。地平線の代わりに、だらだらと空と地の境界線を形作っている山並み。山並み、というより、山波、という感じがしっくりくるような不規則な曲線。神戸では、道に迷えば、とにかく、山の方向か、海の方向に歩いていけばいいのです。そうすれば、どこかで鉄道にぶつかる。北から、阪急、JR、阪神。あとは線路沿いに歩いていけば、駅に着く。

ガレリア座の合宿で、よくお世話になる、国立青年の家、という施設があります。これが御殿場の、自衛隊の訓練地の真中にあるんです。つまり富士山の裾野です。ここから見る富士山は本当に圧巻です。富士山というのは不思議な山で、近づいても近づいても、遠くそびえているような圧倒感が消えません。中央高速から、富士山に向けて高速道路を走っていく時、急速に近づいてくる富士山の重量感といったら。

千葉や、今の調布から眺める富士山にも、まさに「高みにあって人を見下ろす」ような威圧感があります。生活からは離れた所にある、どこか「ありがたい」存在。日本の精神世界が関西からスタートしたからこそ、日本は多神教になりましたけど、もし日本の精神世界が関東からスタートしていたら、富士山を中心とした一神教的な宗教観も発生していたかもしれないなぁ。