ほほえみをありがとう

TCF合唱団による、辻正行先生追悼演奏会、「ほほえみをありがとう」コンサートの感想を書きます。今日は、第一弾ということで、このコンサートの第一部の、指揮者の競演についての感想です。

追悼コンサートの一つの見ものは、第一部での豪華な指揮者の競演でした。合唱界のまさに重鎮といえる指揮者の方々が、辻正行先生の追悼のために、次から次へと高田三郎作品を指揮されました。盛岡コメット合唱団の松田晃先生が「わたしの願い」を。栗友会の栗山文昭先生が「橋上の人」を。晋友会の関屋晋先生が「水のいのち」を、それぞれ抜粋で指揮されました。これは実に聞き応えがありました。

このコンサートの後、正行先生が指揮された「橋上の人」と、「水のいのち」の録音を聞きなおしたのですが、やっぱりどこか違うんですね。どこが違う、というのは私にはうまく言えないのですが・・・

松田先生の「わたしの願い」は、非常に端正な感じがしました。奇をてらったところのない、すっきりとした音楽。演奏としては、もう少しソリストと合唱の声の色がしっくり溶け合った方がよかった気がしましたが、余計なところのない、淡々とした、鮮やかな音色が聞こえた気がします。

栗山先生の「橋上の人」は、とても内省的な感じがしました。演奏に入る前の一言も、指揮者という孤独な職業を共有した正行先生への共感に触れられた、含蓄深いものでした。「かつて泉があった」という歌詞が、まさに、旅立たれた正行先生を泉になぞらえたような、深い思い入れを持って歌われた気がしました。聞いている我々側にそういう思いがあるせいかな、とも思います。でも、帰宅後聞いた、正行先生指揮の「橋上の人」では、同じ歌詞が、透明感のある爽やかさで歌われていました。全体に暗いトーンの支配する「橋上の人」の中で、この楽章だけが、まさに美しかった過去への清らかな思いを歌うように。全体がモノクロの映像の中で、ここだけが明るいカラー映像に変わったかのように。一方、栗山先生は、過去への深い哀愁を込めた音楽として、セピア色に作り上げられた気がしました。

関屋先生の「水のいのち」は、実にダイナミックで、思い入れたっぷりな感じでした。「空の高みへの始まりなのだ」という言葉も、「のぼれ、のぼりゆけ」という言葉も、全てが、強い意志と祈りに満ちた、エネルギッシュな音に聞こえました。演奏に入る前、関屋先生がひょこひょこと出てくるだけで、会場が笑いに包まれる。なんともお人柄のにじみ出た、ちょっと破天荒な感じが、関屋先生の魅力なのでしょうか。この曲も、正行先生の演奏を聞きなおしてみたのですが、ずっとあっさりしていました。洋食の「水のいのち」と、和食の「水のいのち」という感じ。

個人的には、栗山先生の演奏が最も完成度は高かったかな、という気がします。松田先生の演奏は、トップバッターということもあり、合唱団側にちょっと準備が足りない感じがしました。もう少し温まってから、松田先生の指揮で歌うと、全然違う音になったかもしれません。ひょっとしたら、松田先生の高田三郎作品への淡々とした、てらいを排したアプローチ、というのが、一番、正行先生のアプローチに近いのかもしれない、と思います。好みで言うと、関屋先生の人間味あふれる感じも、結構好きです。

でもやっぱり、身近で何度も聞いたせい、というのもあるんでしょうけど、正行先生の高田三郎が一番好きだなぁ。昨夜、正行先生が指揮された、「その心の響き」演奏会のDVD映像を、女房と二人で見直したんですけど、実にいい。曲想を導き出す正行先生の表情を見ているだけで、音楽の色が見えてくる。でも、意外なくらいあっさりした演奏なんです。あっさりしているんだけど、上滑りしない。どこか、悟りきったような、澄み切った感じがする。すごく切れ味の鋭い刀で、すぱっと切られたような、鮮やかさがある。そのくせ、硬質でない。冷たくない。「のぼれ、のぼりゆけ」という歌詞を導き出す正行先生は、指揮をしながら輝くような笑顔でした。「ほほえみをありがとう」という言葉は、その微笑から導き出された、美しくも温かい先生の音楽に捧げられた言葉なんだな、と、改めて思いました。