明石屋さんまはニヒルである

最近放送されている「古畑任三郎」の第二シリーズ、録画しておいた明石屋さんまの回を、昨夜見ました。第一シリーズからしばしの間を置いての第二シリーズの初回、2時間のスペシャル、ということで、三谷さんも気合が入っていたんでしょうか、個人的には、古畑任三郎シリーズの中でも、一番の秀作だと思っています。アリバイ崩しの部分は、元ネタの刑事コロンボに似た回がありましたが、犯人を追い詰めていくプロセス、クライマックスの法廷シーンの緊張感、さりげない伏線の張り方、どれをとっても拍手もの。

でも、この回の完成度を高めているのは、何といっても、犯人役の明石屋さんまさんの存在感でしょう。さんまさんと田村さんの対決シーンは、数ある古畑vs犯人たちの対決シーンの中でも屈指の出来栄え。次第に追い詰められている小清水弁護士の苛立ち、その苛立ちが法廷で頂点に達することで、耐え切れなくなって自白に及んでしまう。この程度の証拠であれば、最後までしらを切り通せば、なんとかなった気もするんですけど、あそこまで追い詰められたあげくに、「それは自白ととってよろしいんですね」とダメをおされると、「そう」と言わざるを得なくなってしまう。その心理的な過程が、見事。

でも、この回のさんまさんの演技を見ていて、この人って、こういう「ニヒル」な役が合うなぁ、と思いました。大竹しのぶさんとのコンビで、ぼけキャラに振り回される優柔不断な男のイメージが強いんですけど、結構こういう悪役に向いているのかも、と思います。

お笑い系の中でも、たけしさんみたいに、「自分は天才である」ことを前面に出しつつ、バカな連中をコケにすることで笑いを取るタイプも多いですよね。例えばダウンタウンの松本さんとか、爆笑問題の太田さんとかもこういうタイプじゃないか、と思うんです。もちろん、松本さんや太田さんの場合、その脇で、その「天才」ぶりを笑い飛ばしている突込みの相方がいて成り立っている芸なんですけど、たけしさんに至っては、ほんとに天才なもんだから、突っ込む人すらいなくなっちゃった。仕方がないので、自分と同じような「天才」達を並べる番組やってますね。そういう逃げ道もあるのか。天才の孤独。

一方で、さんまさんというのは、昔から、「自分はダメである」ことを売りにしつつ、自分も周りの人も全部ひっくるめて笑い飛ばすことを芸にしてきました。なんてったって、アミダババだのブラックデビルをやってた人ですからねぇ。結局彼も一種の天才で、自分も含めた全てのものが突っ込みの対象なんですね。彼の突っ込みに耐えられるだけのボケをかましてくれる人がいないから、一人でやっていくしかない。大竹しのぶさんとのコンビがあれだけ成功したのも、大竹さんのボケが、さんまさんの突っ込みとバランスが取れるだけの天才的なものだったから。でも、やっぱり、天才2人、というのは長続きしないんだなぁ。

でも、そうやって、自分も周りの人も全部ひっくるめて突っ込みを入れる、ということって、結局、全ての事象をすごくクールに、客観的に見ている、ということにつながると思うんです。所詮全部芸のネタや、みたいな。さんまさん自身は、結構熱血漢的なところもある熱い人のように思うんですけど、芸風としては、そういうクールなところがある。それが、犯罪者を演じた時の、どこか冷めた、ニヒルな感じにつながっていく。それが実に魅力的なんだなぁ。

以前この日記で、「ユーモアの効用」みたいなことで、「笑い」というもののもつアナーキー性と、それによって全ての事象が客観的かつ相対的に捉えられる効果、のようなことを論じたことがあったと思うのですが、さんまさんの芸風にも、この客観性というか、自分自身も冷めた目で笑い飛ばしてやろうとしている視線を感じます。そんな悪役が、古畑の心理作戦でじわじわと追い詰められていく、なまじ「ニヒルでクール」なキャラクターを演じていないさんまさんだから余計に、そのニヒルさが際立つ。面白いなぁ、と思いながら見ていました。