編集ということ

今日はちょっと時事問題っぽく。最近報道されている、北朝鮮拉致被害者家族に対する批判問題について、ちょっと書きたいと思います。

「最悪の結果である」とか、「喜びの気持ちはない」といった発言だけが取り上げられ、5人の家族の来日を実現させた小泉総理や、政府に対する感謝の言葉がなかった、という非難の声が集中している、という報道です。

この非難に対して、「謝意は表明したのに、報道されなかった」という家族の反論があったそうですが、報道というのはこういうものみたいですね。要するに、報道する側が、一番「報道する価値がある」「報道するべきだ」と考える部分だけが報道される。それ以外の情報というのはカットされてしまうんです。その「情報の選択」という過程において、確実に、報道する側の意図が加わってきます。その結果として、語られた情報や内容そのものが、変貌してしまう。この日記で繰り返し取り上げている、「どう語るか」という「手段」の部分が、「何を語るか」という「内容」に対して大きく影響してしまう、ということ。その典型的な例を見る気がします。

以前、某TV局の取材を受けた大学教授の友人に話を聞いたことがあります。そのTV局は、政府批判を繰り返すことに命をかけているTV局で、取材してきた記者も、二言目には、「だから政府の施策はダメなんですよね?」と聞いてくる。友人も、その意図が見えているから、「いや、ダメ、ということではなくて、ちゃんと意味があることなんですよ」とか、「一概に判断できる問題じゃないんです」などと、きちんと切り返していたそうなのですが、1時間以上に渡ったインタビューの最後の一瞬で、ある意味、根負けして、「まぁ、問題がないわけではないですね」とちょっと口を滑らせた。すると、長いインタビューの中の、その一瞬だけが放送されたそうです。「こうなると、根性あるよね」とほとんど呆れ顔で話してくれました。

どの情報を伝え、どの情報を伝えないか。あるいは、どの情報とどの情報を組み合わせて伝えるか。「編集」という言葉でくくることができる活動だと思うのですが、これには、今回のようなネガティブな側面だけではなくて、もっとポジティブな側面もあります。「コラボレーション」というのも、一種の「編集」行為だと思うんです。組み合わせることによって、双方の価値を上昇させる。すごく簡単な例で言えば、結婚式場とおいしいレストランを組み合わせて、レストランウェディングを提案する、というのが一時期流行りましたけど、これも組み合わせ効果です。さらに、補完効果、というのもあります。例えば子供向けの雑誌で、仮面ライダーセーラームーンを両方掲載しておけば、男の子も女の子もその雑誌を買ってくれる。

「編集」ということって、あんまり表に出てこない、裏方っぽい印象のある言葉ですけど、「どう語るか」という「コンテクスト」が重要視されてきている現代においては、実は非常に重要な仕事なんじゃないか、と思うのです。ここでは、普通使われる、雑誌の「編集」という以上の意味を「編集」と言う言葉に負わせている側面もあります。つまり、何を切り取り、何を際立たせ、何と何を組み合わせるか、という、情報伝達において不可欠な過程全般を、「編集」と呼んでみたい。その上で、自分の仕事や、様々な作業の中で、この「編集」行為が生み出しているプラスの価値や、マイナスの価値を、きちんと自覚する必要があるなぁ、と思いました。

逆に、情報の受取側としては、それら様々な情報が、「編集」されているものなのだ、ということを十分に了解して受け取る必要があるということ。今回の報道を見て、それを改めて思いました。