日本語を読み、書き、話すということ

今朝方は過って、女房のお気に入りのクリーム入れを壊してしまい、朝っぱらからブルーです。このクリーム入れ、一度店頭で気に入って購入してきたのを、私が玄関先で落として割ってしまい、再購入したもの。それをまた私が割ってしまったんだから、相性が悪いと言うかなんというか・・・あうう。

気を取り直して、今日は、昨晩のニュースを見ていて異様に腹立ったことを。
群馬県で、全ての授業を英語で行うという実験的な小学校が授業を開始する、というニュースです。この日記では、あんまりこういう時事問題は取り上げないつもりだったんですが、あまりに腹立ったので、思わず書いてしまう。
こういう試みを計画している市長がいる、というのは知っていましたし、馬鹿なことを考えてるなぁ、と呆れて見ていましたけど、本当にやってしまうとなると、最大の被害者は子供たちです。でも、TVのニュースで見る限り、どことなくポジティブな取り上げられ方をしていて、それもまた腹が立つ。
この小学校に行く子供たちは、日本語のコミュニケーションも、英語のコミュニケーションも不完全な、非常に中途半端な状態に陥る可能性がすごく高いと思うんですね。
理由はいくつかありますが、最大の理由は、正しい日本語を読み、書き、話すためには、それなりの訓練が必要なのじゃないのか、という点。それでは、今の小学校でそういうことをきちんと教えられているのか、というと、色々と問題はあると思います。でも、やってないよりはましなはず。英語による教育を「与える」ことによって、正しい日本語を学ぶ機会が「奪われている」ということを、親御さんたちが十分理解する必要があるんじゃないでしょうか。
例えば、海外赴任の方の子供たちに対しては、通常の英語による学校とは別に、日本語を学ぶ塾に通わせたり、そもそも日本人学校に通わせるなどして、日本語によるコミュニケーションの機会を維持しよう、という親御さんの努力が必ず注がれると思うのです。

・・・と、ここまで書いたら、早速まゆみちゃんからコメントがありましたね。ほんと、驚くばかりですが、私の憤りはまだ続いているので、すみません、先を書かせていただきます。

・・・しかしながら、そういう海外赴任の方と違って、今回の場合には、子供たちは日本に住んでいる。そうなると、この子供たちの親御さんは、英語による教育と並行して、「正しい日本語を学ぶ機会」を子供に与えねばならない、という意識が希薄になってしまいはしないだろうか?どこかに、「日本語なんて、普段から使っているんだから、特に訓練しなくても身につくものだ」という思いがないだろうか?

絶対違う、と思うのです。日本語を正しく使うには、相当の訓練ときちんとした教育が不可欠です。そして、日本人が英語がヘタだ、とよく言われる背景には、まさしく、その日本語の教育がずさんであったから、ということが最大の原因なのではないか、と私は思っています。

日本人が英語がヘタだ、という最大の原因は、「英語に触れる機会がないから」ではないと思います。日本人は、コミュニケーションそのものがヘタなのです。閉鎖された社会の中では饒舌になれても、未知の人たちに開放された社会の中では、途端に自己表現ができなくなってしまう。そういう形のコミュニケーションの方法や手段をきちんと学んでいないからです。だからこそ、英語に代表される異文化とのコミュニケーションが、どうにもヘタクソになってしまう。
そして、そういう「開放された社会における自己表現・コミュニケーションの方法」というのは、日本語によって十分に学べる、というか、日本語によってまず学ぶべきものだ、と思います。

何故なら、日本語は日常でも利用され、最も身近で使いやすい手段だからです。まず日本語によって、開かれた社会に対するコミュニケーション・プレゼンテーションの方法・手段をきちんと学び、その後で、英語を学べばいいのです。

また、英語を本当にバイリンガルのように使いたい、ということであれば、日本語によるコミュニケーションが十分にできるようになってから、家庭でも学校でも英語しか使わない、という徹底した環境に、4年とか5年間自分を置いてみればよい。そうすれば、カンペキなバイリンガルが生まれると思います。

夏目漱石を初めとする明治の知識人たちは、幼少の頃にまず徹底的な日本語教育をほどこされ、その後、欧州への留学によってほぼ日本語から隔絶された世界に暮らした。そうすることで、欧州人も驚くほどの教養の深さを示すことができたはずです。その日本語の教育をおろそかにしながら、英語の上達などありえないはずなのに。

別に国粋主義者のように、「日本語は美しい」とか、「この美しい日本語を学ぶべきだ」なんて言うつもりはありません(少しはあるけど)。世界に通用するコミュニケーション能力を学ぶのに、言語は関係ない、だったら、一番身近な日本語でそれを学ぶのが手っ取り早いでしょ、と言っているのです。世界に通用するコミュニケーション能力とは、「誰に対しても、自分の主張を的確に表現し、相手の主張を的確に理解する」ということに尽きると思います。それは日本語でも十分学べるはずですし、まずは日本語で学ぶべきことだと思いませんか?

そういうコミュニケーションの方法を学べば、英語圏に飛び込んでいっても、自然と英語が身につく、そういう受け入れ体制ができると思いませんか?

・・・ああ腹立つ。うちの娘には、とにかく徹底的に、美しく、正しい日本語を学ばせたい、と本当に思っています。英語をペラペラ喋る子供たちをみて、はしゃいでいる親御さんがいたら、それは単なる自己満足です。その子が将来、きちんとした日本語で手紙もかけないとしたら、どうしますか?自分の自己満足のために子供の将来を犠牲にしないでほしい。本当に。